サーカーと赤旗報道(オーストラリア戦)
    ここでも政治的音痴を暴露している。


 サッカーW杯 アジア最終予選は、ブリスベーン(オーストラリア)で、日本とオーストラリア戦われた。結果は1−1で引き分けに終わったが、日本は健闘し、判定に疑問が残る試合であった。

 この試合については、多くの国民がテレビの前にかじりつき、日本の勝利を確信し応援していた。またニュース番組等を合わせれば、ほぼすべての国民がこの試合を見たと思われる。

このような中で、翌朝配達される新聞報道の在り方を考えてみたい。

<スポーツ報道の在り方> 

 赤旗は【スポーツ面】でこの試合結果を時事通信の配信記事で埋めた後に、赤旗独自の記事を掲載した。その見出しは「日本 まだ途上」、「守備でほころび 試練の道程」という見出しを掲げた。私はサッカーに詳しくなく、ミーハー的な興味しか持っていないが、この赤旗の記事を見て、赤旗は国民の気分感情を全く理解していないなとあきれ返えった。

 テレビを見ていた多くの国民は、本田の右クロスを栗原が右足で押し込み先制した姿に酔いしれたし、ゴール前で内田の反則でPKを与えきめられたシーンで、「なぜあれが反則と怒り」、最後は本田がFKの体制に入った直後に試合終了の笛が吹かれたことに「なんでや、おかしいのでは」と思ったに違いない。

 あくる日の朝、多くの人は、新聞はこの点をどう書いているのかと新聞を手に取ったはずである。しかし赤旗は、これら疑問の残る審判については全く触れず、日本チームが「相手が先にボールに対応した場面で、反則を繰り返した。しかも”手”を悪用したプレーで。危険を招いた」と書いている。そして、「どんな展開にもわれを失わず、最後まで冷静に対応できる選手の結集体となれるか。最終予選を通して、試されている。」と結んでいる。

 この冷静な評価は何を狙っているのか、私は国民がテレビの前にしがみつきサッカーを応援した;熱気を受け、これに応えた記事を書くのが、スポーツ報道の役割だと思っている。おそらく翌日の職場や学園、あるいは井戸端会議でこのサッカーの結果が最大の話題であったと思われる。赤旗を読んだ読者が、みんなが「あの審判の判断おかしいぜ」と話しあっているとき、「いや日本チームが”手”を使い反則を繰り返した」と割って入れば、その人は、「ハミ子」になるであろう。

<新聞記事は如何にして作られるか>

 おそらく赤旗以外の新聞社は、試合結果によって出す記事を変えていると思われる。試案が終了する前から記事作成にかかり、勝利した時はこの見出し、負けた時はこの見出しとあらかじめ試合の流れとともに下準備をしていると思われる。(主張・論点を変える)

 オーストラリア選の試合の場合のポイントは、先にもあげた先制ゴールと不可解は審判の判断であった。これを語らずして報道機関としても役割が果たせるのか大いに疑問である。(注1)毎日新聞は、「敵地 豪とドロー」と大きく伝えた。さらに「芝ボコボコ判定も厳しく」と伝えた。

 赤旗は選挙の報道でも、負けても、勝っても同じ報道を繰り返している。決して負けを認めない。これらの癖が付いているからサッカー報道でもその機微が判らない。勝った時は勝利に浸る。負けた時は苦言を呈する。今回のような引き分けは難しいが、判定に疑問があった場合はここに焦点を当て、奮闘をたたえる。(勝ちに等しい戦いであったと)

 このことはスポーツ報道だけでなく、すべてのことに当てはまる。仕事でも良い出来はほめる。悪い時はしかる。結果はイマイチでも努力が見られたらそこをほめる。こんな簡単な原則が共産党には判らなくなっている。それはいつも事実に眼を向けず、常に自分たちに有利な報道に徹するという思惟的思考に慣れてしまい、サッカーで日本中が沸いているのに、それに「ケチを付けたような報道」を平気でしてしまう。共産党の劣化はすでにここまできている。(注2)

注1:毎日新聞は不可解な審判の判断について、(前略)試合終了のタイミングについて、国際サッカー連盟(FIF
     A)の競技規則では「PKの場合は完了するまで時間を延長する」と規定されているが、競技者の交代などに
     費やされた時間をどれだけロスタイムと認めるかは、主審の裁量に委ねられている。(後略)

注2:一紙で間に合う新聞というキャッチフレーズを採用した際、赤旗のスポーツ欄や料理欄は、他紙よりも優れて
     いる。これを宣伝ポイントにして拡大せよと指導を受けたことがある。(私のその時の判断は、「馬鹿げてい
     る。共産党はもう駄目だ」であったが。)