7中総批判第2弾

   7中総「結語」で志位委員長が得意満面の笑顔で語ったこと。

     「問われているのは、日本経済に責任を負うのか、責任の放棄か」(志位委員長)


                                                 平成25(2013)年6月3日

はじめに

 7中総の批判はすでに行ったが、「結語」については触れていなかったので、「結語」の問題点について一点だけ指摘しておきます。

 それは志位委員長が得意満面笑顔で資料を手にかざし、「関西のある学者が7中総の指摘と同じことを言っている。」つまり7中総の捉え方が正しいことを証明していると話したことが本当か、でっち上げかについてである。

<志位氏は、「関西の大学の名誉教授の朝日新聞への寄稿文がここにある」とみんなにかざしして見せた>

 7総の結語で、志位委員長は「問われているのは、日本経済に責任を負うのか、責任の放棄か」だと訴え、「きょう(8日)、「朝日」の「オピニオン」欄に、ある関西の大学の名誉教授の寄稿が掲載されているのですが、それがたいへん興味深いものなのです。」と主張されています。(私は7中総のビデオを見たのですが、まさにこれが目に入らないのかというように得意満面の顔で志位氏は読み上げました)

 その内容を少し紹介しますと(以下引用は青字引用文の小見出しは私が付加した

<グローバル企業(「無国籍企業」)の無責任さ>

 「起業したのは日本国内で、創業者は日本人であるが、すでにそれはずいぶん昔の話で、株主も経営者も従業員も今では多国籍であり、生産拠点も国内には限定されない『無国籍企業』」になっている。そういうグローバルな展開をするのは企業の自由かもしれないが、「だが、企業のグローバル化を国民国家の政府が国民を犠牲にしてまで支援するというのは筋目が違うだろう」。「ことあるごとに『日本から出て行く』と脅しをかけて、そのつど政府から便益を引き出す企業を『日本の企業』と呼ぶことに私はつよい抵抗を感じる。彼らにとって国民国家は、『食い尽くすまで』は使いでのある資源である」。「コストの外部化を国民国家に押しつけるときに、『日本の企業』だからという理由で合理化するのはやめて欲しいと思う」

 と彼の主張を紹介し、そのうえで志位委員長はこの主張を評価し以下のように述べています。

私は、れは、正論だと思います。多国籍企業化し、「無国籍企業化」して、自分たちの利益だけをむさぼって、好き勝手なことをやっているにもかかわらず、「日本の企業だから便益をはかってほしい」というのは、あまりにもむしがいいのではないかという痛烈な批判であります。

 と「朝日」の「オピニオン」欄に投稿した大学の教授を持ち上げ、共産党の主張と同じ主張を大学教授がしているといつもの権威主義(ここでは名誉教授と朝日新聞というブランド)を出しています。(誰々が言っているから、あるいは評価しているから共産党の主張は正しい。・・・これが共産党の常套句)

 しかしこの大学教授に引用が果たして適当であったのかは疑問が残ります。

 実は「「エガリテファン76歳」さんから、あの文書は朝日のオピニオンの記事の一部を恣意的に引用したもので、筆者の趣旨に反する引用になっている」との情報をもらいました。そこで原文に当たってみましたが、確かに大きく違うところがあります。少し長くなりますが原文を引用します。

内田樹(神戸女学院大名誉教授)「壊れゆく日本という国」(「朝日」8日付け)

内田氏のブログから引用赤字の部分は赤旗が引用した部分

「日本の現在地」というお題だったので、次のようなものを書いた。
朝日新聞を取っていない人のためにブログに転載する。(本文は内田氏のブログににあります)

  日本はこれからどうなるのか。いろいろなところで質問を受ける。
  「よいニュースと悪いニュースがある。どちらから聞きたい?」というのがこういう問いに答えるときのひとつの定型である。それではまず悪いニュースから。

<国家とは何か・・・解体過程に入った日本>

  それは「国民国家としての日本」が解体過程に入ったということである。
国民国家というのは国境線を持ち、常備軍と官僚群を備え、言語や宗教や生活習慣や伝統文化を共有する国民たちがそこに帰属意識を持っている共同体のことである。平たく言えば、国民を暴力や収奪から保護し、誰も飢えることがないように気配りすることを政府がその第一の存在理由とする政体である。言い換えると、自分のところ以外の国が侵略されたり、植民地化されたり、飢餓で苦しんだりしていることに対しては特段の関心を持たない「身びいき」な(「自分さえよければ、それでいい」という)政治単位だということでもある。
 この国民国家という統治システムはウェストファリア条約(1648年)のときに原型が整い、以後400年ほど国際政治の基本単位であった。それが今ゆっくりと、しかし確実に解体局面に入っている。簡単に言うと、政府が「身びいき」であることを止めて、「国民以外のもの」の利害を国民よりも優先するようになってきたということである。

<「国民以外のもの」の利害を国民より優先するようになってきた>

 ここで「国民以外のもの」というのは端的にはグローバル企業のことである。
 起業したのは日本国内で、創業者は日本人であるが、すでにそれはずいぶん昔の話で、株主も経営者も従業員も今では多国籍であり、生産拠点も国内には限定されない「無国籍企業」のことである。(この部分は赤旗引用部分)この企業形態でないと国際競争では勝ち残れないということが(とりあえずメディアにおいては)「常識」として語られている。

 (中略)

いずれすべての企業がグローバル化するだろう。繰り返し言うが、株式会社のロジックとしてその選択は合理的である。だが企業のグローバル化を国民国家の政府が国民を犠牲にしてまで支援するというのは筋目が違うだろう。(赤旗が引用)


(中略)

 ことあるごとに「日本から出て行く」と脅しをかけて、そのつど政府から便益を引き出す企業を「日本の企業」と呼ぶことに私はつよい抵抗を感じる。彼らにとって国民国家は「食い尽くすまで」は使いでのある資源である。(赤旗引用分)

(中略)

<グローバル企業とは、コストを国民に押し付け、利益だけを確保>

  要するに、本来企業が経営努力によって引き受けるべきコストを国民国家に押し付けて、利益だけを確保しようとするのがグローバル企業の基本的な戦略なのである。
 繰り返し言うが、私はそれが「悪い」と言っているのではない。私企業が利益の最大化をはかるのは彼らにとって合理的で正当なふるまいである。だが、コストの外部化を国民国家に押しつけるときに、「日本の企業」だからという理由で合理化するのは止めて欲しいと思う。(赤旗引用部分)

(中略)

 そして、この問いはただちに「われわれが収益を確保するために、あなたがた国民はどこまで『外部化されたコスト』を負担する気があるのか?」という実利的な問いに矮小化される。
 ケネディの有名なスピーチの枠組みを借りて言えば「グローバル企業が君に何をしてくれるかではなく、グローバル企業のために君が何をできるかを問いたまえ」ということである。
 日本のメディアがこの詭弁を無批判に垂れ流していることに私はいつも驚愕する。(以上引用)

ここまでで寄稿された文書の途中であるが、その一部を赤旗は恣意的に引用している。この投稿文書の最初の切り口は国家とは何かであり、常備権を備えたものという書き出しで始まっているところをはずしている。

 さらにこの大学教授の文章が面白いのは、ここからである。(赤旗は引用していないが)

(ここからは赤字は赤旗の引用した部分ではなく、私が強調した部分

<グローバル化と排外主義的ナショナリズムは、コインの裏表>

  「もう一つ指摘しておかなければならないのは、この「企業利益の増大=国益の増大」という等式はその本質的な虚偽性を糊塗するために、過剰な「国民的一体感」を必要とするということである。
 グローバル化と排外主義的なナショナリズムの亢進は矛盾しているように見えるが、実際には、これは「同じコインの裏表」である。
 国際競争力のあるグローバル企業は「日本経済の旗艦」である。だから一億心を合わせて企業活動を支援せねばならない。そういう話になっている。

 という指摘である。なぜ赤旗は引用するならこの部分をはずしたのか、これも分からない。

(中略)

<国民国家の末期の形・・・安倍政権>

  私たちの国で今行われていることは、つづめて言えば「日本の国富を各国(特に米国)の超富裕層の個人資産へ移し替えるプロセス」なのである。現在の政権与党の人たちは、米国の超富裕層に支持されることが政権の延命とドメスティックな威信の保持にたいへん有効であることをよく知っている。戦後68年の知恵である。これはその通りである。おそらく安倍政権は「戦後最も親米的な政権」としてアメリカの超富裕層からこれからもつよい支持を受け続けることだろう。自分たちの個人資産を増大させてくれることに政治生命をかけてくれる外国の統治者をどうして支持せずにいられようか。

 今、私たちの国では、国民国家の解体を推し進める人たちが政権の要路にあって国政の舵を取っている。政治家たちも官僚もメディアも、それをぼんやり、なぜかうれしげに見つめている。たぶんこれが国民国家の「末期」のかたちなのだろう。(後略)

<日本の国宝が米国富裕層へ>

 この指摘も重要である。郵政民営化の際。石原慎太郎もサンデープロジェクトで同じ趣旨の発言をした。「アメリカの狙いは日本の貯蓄1400兆円をアメリカが奪い去ること」だと。

  しかも面白いのは(わけが分からないのは)共産党はこの学者の主張がよっぽど気に入ったと思われ、赤旗の論壇時評(5月29日付け)で、この内田氏を取り上げている。その際の見出しが「日本の国宝が米国富裕層へ」という見出しを掲げていることからすれば、この内田論文の核心はここにあると(論壇時評は)みていると思われる。(志位氏とはポイントが違う)。

  この内田氏の多くの指摘は正しいですが、常備軍の備えから見れば共産党支持の学者でないとおもわれます。その内田氏を志位氏が取り上げ、論壇時評でまた取り上げている現状は、おそらく共産党支持者の学者がこうした社会的発言を行うことがなくなっている証ではないか?

 共産党を支持していた学者たちはどこへ行ったのであろうか。(もうすでに見放されたのであろうか?)マルクス経済学の立場から、グローバル経済の本質・問題点を明らかにすることが求められている。
  志位氏の主張「問われているのは、日本経済に責任を負うのか、責任の放棄か」と言う主張は、共産党の主張する「ルールある資本主義」という議論に結びつくのであろうが、帝国主義の時代、グローバル化した経済は、資本の論理が優先するのは、その本質ではないのか?

  ルールある資本主義を唱えれば、資本の論理より国民の利益を優先する経済システムが本当に作れるのか極めて疑問である。(マルクス主義経済の立場からの議論がないのは、ルールある資本主義の主張と自らの学問的立場の整合性が取れなくなったからではないか、この辺の解明fがなされることを望むものです。)