国会開会式における儀礼と形式の問題点   今井 明


 平成27(2015)年12月27日

 
このページは討論の広場の今井 明様の「「国会開会式におぇる儀礼と形式の問題性」から、続きを掲載しています。

(1)志位委員長の見解表明

1.日本共産党が国会開会式への出席を拒んできた理由は2つある

 日本共産党が国会開会式への出席を拒んできた理由は、2つあります。
 第1点は、国会開会式の形式が、戦前の第日本帝国憲法の時代の形式を踏襲するものであるという点です。議会が立法権を掌握する天皇の「協賛」機関にすぎなかった戦前の大日本帝国憲法下の「開院式」の形式を踏襲しているということは、国会開会式の形式としては、憲法の氏国民主権とは相いれません。それは、「主権在君」の原則を前提とした形式であり、現在の「主権在民」の原則に基づく憲法下のあるべき国会開会式に相応しいとはいえません。
 第2点は、これまでの国会開会式の場で、天皇が「お言葉」を述べる際に、アメリカ政府や自民党政府の内外政策を賛美・肯定す るなど国政に関する政治的発言を行なってきた点です。それは、「国政 に関する権能を有しない」という憲法の規定に違反する行動です(例えば、1952年の国会の開会式では、サンフランシスコ講和条約と日米安保条約の発効を「喜びに堪えない」と述べるなどしました。憲法の規定からの重大な逸脱が公然と行なわれてきました)。
 志位委員長は、日本共産党が国会開会式に出席してこなかった理由として、国会開会式の形式と天皇の「お言葉」の憲法違反性を挙げました。

2.理由の2つのうちの1つが解消され、国会開会式へ出席することが可能に  なった

 国会開会式の形式の憲法違反性は現在でも変わりません。しかし、天皇の「お言葉」には、この30数年来、変化が見られます。天皇は、政治的発言を止め、儀礼的・形式的な発言にとどめるようになりました。30年来続いてきたので、慣例として定着したといえます。従って、この点に関しては、「国政に関する権能を有しない」という憲法の規定から逸脱しているとは、もはや言えません。志位委員長は、欠席理由の第2点目が解消されたこと踏まえて、国会開会式への欠席の方針を改め、2016年からは出席することにしたと見解を述べました。

3.未解決のもう1つの理由の抜本的な改革は引き続き求められるべきである

 ただし、欠席理由の第1点目、すなわち開会式の形式が戦前の「開院式」の形式を踏襲している点について、根本的な再検討が必要であることに変わりはありません。志位委員長は、憲法の国民主権の原則を踏まえた抜本的な改革を引き続き求めていくと述べました。

4.抜本的な改革のためには、日本共産党の積極的対応として、国会開会式へ出席  することが必要である

 では、どのようにして改革するのでしょうか。志位委員長は、日本共産党が国会開会式に出席することは、戦前の形式を踏襲している問題の抜本的な改革を実現するうえで、より積極的な対応になると述べました。

(2)記者団の質問

 志位委員長の見解は、大筋として、上記の4つにまとめることができます。この見解表明に対して記者団から6つの質問が出されました。

1.国会開会式の改革を実現するうえでも出席することが積極的な対応になるとい
  う趣旨について。
2.国会開会式の形式の改革の具体的な内容について。
3.見解表明を行なうことになった経緯について。
4.第3の質問を受けて、共産党が「普通の政党」になる一環として国会開会式に
  出席するという意味なのかどうかについて。
5.戦後、日本共産党は国会開会式に出席したことがあるかについて。
6.「君主制」に関する見解について。

 これらの質問のうち第3、4、5の質問は、今回の国会開会式への出席という政策転換とは直接的な関係はありません。むしろ、第1と2の質問、そして第6の質問が、この問題との関係で重要であると思われす。

(3)憲法上の天皇の制度について――第6の質問について

 質問の順番と前後しますが、国会開会式への出席という方針転換の意味を正確に理解するために、天皇制に関する日本共産党の基本見解を整理しておく必要があります。そのために、第6の質問に対する志位委員長の答えを見ておきたいと思います。

 記者団の質問は、「君主制」に関するものです。質問者は、おそらく、「天皇=君主の1変種」という理解に基づいて質問したのではないかと思われます。志位委員長は、この質問に対して、2004年の綱領改定では天皇を君主とは規定していないことを端的に述べています。日本国憲法では、天皇には「国政に関する権能」はありません。君主とは、政治的な権能を有する存在であり、それを持たない天皇は君主ではないということです。それを理由にして、志位委員長は日本の政治制度が君主国ではなく、国民主権の国に分類されると述べています。

 日本の政治制度が国民主権の原則に基づいているというのは、その通りです。しかし、他方で憲法は、天皇の地位を国民統合の象徴と規定しています。1人の人間が、世襲によって、国民を統合する象徴の地位を継承するというのは、民主主義と平等主義と両立するものではありません。このような問題を持つ天皇の制度は、国民主権とはそぐわないものです。従って、日本の民主主義の実現という観点から考えた場合、制度としては、「国政に関する権能を有しない」などの規定を厳格に実施することによって、天皇に関する現在の制度が憲法の条項と精神から逸脱しないよう制限することが必要です。かりに憲法が天皇を「主権者」、「元首」と規定しているならば、それは 実質的にも形式軽的にも国民主権とは矛盾するので、日本の民主主義、平等主義、国民主権を実現するためには、それと矛盾する憲法の規定を改正し、国民主権の徹底を実現できる民主的共和制を宣言することが求められますが、現在の憲法では主権者は国民であり、天皇はその統合の象徴でしかなく、国政に関する権
能を有しないので、憲法の枠内において、国民主権の実質的な実現は可能であると考えられます。

 しかし、天皇という1人の人間が、国民を統合する象徴の地位にあるという規定を残したまま、国民主権の原則を完全に徹底することはできません。国民主権を首尾一貫したものとして展開させるためには、政治体制としては、究極的には民主的共和制が望ましく、それを実現するためには、憲法の天皇条項を改正する必要にがあります。日本共産党は、国民主権を徹底し、民主的共和制の確立を目指しています。その意味では、天皇の制度に反対しています。しかし、だからといってすぐに憲法を改正しなければならないとは主張していません。憲法の枠内において現行規定を厳格に実施し、国民主権を実質的に実現することが優先されるべ き、国民主権と平等主義の観点から、もはや国民統合の象徴が必要ではない時代が訪れ、多くの国民がそのように認識し始めたとき、この問題をいかに解決するかを国民の総意によって決めればよいのです。日本共産党としては、象徴としての天皇を廃止すべきであると考えていますが、それを国民に押し付けるのではなく、多くの国民に理解を求めるよ
う働きかけることを基本的な立場としています。

(4)国会開会式の改革について――第1、第2の質問について

 日本共産党の天皇の制度についての見解は、以上のようなものです。天皇が、「開院式」の形式を踏襲して、「お言葉」を述べるというのが現在の国会開会式の形式です。志位委員長は、「開院式」の形式が踏襲されていることは憲法上問題があると述べましたが、天皇が「お言葉」を述べること自体に憲法上の問題があるとまでは述べていません。従って、憲法と国民主権の原則から逸脱しているのは、「開院式」の形式が踏襲されていることであり、その点の抜本的に改革が必要であり、日本共産党の国会議員が国会開会式に出席することが、その改革のための積極的対応になると述べました。第1の質問は、その理由についてのものです。志位委員長は、国会開会式の形式 が憲法の国民主権の原則から逸脱していることを理由にそれへの出席を拒み、その改革を訴えてきたが、その改革のために積極的に対応するために、今後は国会開会式に出席すると述べました。その論理は少し複雑で、分かりにくいのですが、志位委員長はそれを次のように述べました。

 「欠席という態度を続けた場合には、わが党が天皇制反対という立場で欠席しているとの、いらぬ誤解を招き、憲法の原則と条項を厳格に順守するために、改革を提起しているという真意が伝わりにくいという問題があります。その点で、出席した場合には、そうした誤解を招くことなく、憲法遵守のための改革を提起しているという、私たちの真意がストレートに伝わることになると考えました。そういう意味で抜本的改革の実現のためにも、今回の対応がより積極的な対応になると判断しました。」

 日本共産党は、憲法の国民主権を一貫したものにし、それを全面的に展開するために、党の基本的立場としては、天皇制を廃止し、民主的共和制を実現することを目指しています。そのためには憲法改正も必要であることは明らかです。しかし、日本共産党が国会開会式に欠席してきたのは、天皇制が究極的には国民主権に反するという理由からではありません。国会開会式が「開院式」の形式を踏襲し、天皇が「お言葉」のなかで政治的発言をしてきたからです。それにもかかわらず、一部の人々のなかには、日本共産党は天皇制に反対しているから、国会の開会式に出席しないのだ、天皇が開会式に出席し、「お言葉」を述べ るから、欠席しているのだと誤解している人がいます。日本共産党は、国会開会式の形式について、国民主権の精神を厳格に順守するための改革を提起していますが、それが伝わっていないために、誤解されているのです。誤解は正さなければなりません。どのようにして正すのか。それには様々な方法が考えられますが、志位委員長は、出席することによって、その
ような誤解を解き、憲法遵守の改革を提起している党の真意をストレートに伝えたいと考えているようです。従って、国会開会式の形式を抜本的に改革するために、欠席するのではなく、出席することで積極的に対応したいということです。そのきっかけになったのは、30数年来の天皇の「お言葉」に政治的発言が見られなくなったからです。「お 言葉」を述べること自体が憲法上問題があるかどうかは、触れられていません。

 第1の質問に対する志位委員長の答えを踏まえて、第2の質問として出されたのは、国会開会式の形式の改革の具体的な意味についてです。国会開会式の形式の問題は分かりますが、それをどのように改革するのか、改革された形式はどのようなものなのか、共産党国会議員が開会式に出席することが、どのような意味において積極的な対応になるのか。質問の意図は、その点にあったと思われます。

 国会開会式の形式に問題があることは、すでに述べたとおりです。具体的に、天皇のために、特別に高い「玉座」が設けられ、そこで「お言葉を賜る」という戦前の「開院式」の形式が踏襲されているという点が指摘されています。つまり、「国政に関する権能」を持たない天皇が、戦前の絶対君主の時代の形式に基づいて、国会の開会式で「お言葉を賜る」という点です。たとえ「お言葉」に政治的発言が含まれていなくても、開会式の形式それ自体が国民主権に反するということなのか、政治的発言が含まれていない「お言葉」には問題はなく、天皇が国会開会式で「玉座」に座っていることが問題なのか、志位委員長の発言の趣旨は分かりませんが、いずれにせよ、それを 現行憲法の主権在民の精神に沿うように抜本的な改革が必要であると述べました。

(5)若干の考察

 志位委員長の見解表明によれば、国会開会式に欠席してきたのは、@現在の国会開会式の形式が、戦前の第日本帝国憲法下の「開院式」の形式が踏襲されている、そしてA天皇が「お言葉」を述べ、そのなかにアメリカ政府や自民党政府を賛美・肯定するなどの政治的発言があったからです。総じて、国会開会式の形式とそこでの天皇の行動は、「国政に関する権能を有しない」という憲法の規定に反するものであったからです。そうであれば、この二つが解決されなければ、出席できない、その問題性を訴えながら欠席の態度を貫くべきです。そう考えるのがシンプルです。しかし、完全に解決されなければ、出席できないという態度をとるのも硬直的です。志位委員長は、開 会式の形式と政治的発言という2つの問題の1つが解決された、すなわち「お言葉」が政治的でなくなり、儀礼 的・形式的なものになったので、あとの1つは、開会式に出席するなかで訴えていくことが可能になったと認識しているようです。

 しかし、志位委員長の発言で見落とせないので、天皇が述べる「お言葉」が儀礼的・形式的なものになったのが、この30数年来からだという点です。1980年代に入り、昭和天皇の時期から、「お言葉」の内容が儀礼 的・形式的なものになり、アメリカ政府や自民党政府への賛美は見られなくなり、その部分の憲法違反性はなくなった、だから国会開会式に出席するというのです。とはいえ、「開院式」の形式は踏襲され、その部分の憲法からの逸脱はまだ続いています。しかし、国会開会式に出席することにによって、その形式の改革のために積極的に対応したいというのです。欠席方針の理由のうち、「お言葉」が儀礼的・形式的になったことで出席方針へと転換したというならば、「開院式」の形式が踏襲されてきたことは、相対的に重要ではなく、出席することで改革できるということなのでしょうか。

 志位委員長が述べた理由は、複雑であると言わなければなりません。国会開会式の形式として依然 として「開院式」の形式が踏襲されていることは変わってはいません。大日本的国憲法時代の「開院式」的な儀礼性・形式性は、欠席理由の第1であり、この点は実質的に変わっていません。つまり、憲法から逸脱したままです。それにもかかわらず、国会開会式に出席することに決めたのです。何故なのでしょうか。出席することで、日 本共産党 が「開院式」的な儀式を国民主権の立場から改革するよう訴えていることをストレートに伝えられるといいますが、それは席しながら行なうことはできないのでしょうか。国会開会式に出席しなければ、それが訴えられないのでしょうか。その理由は記者会見では述べられていません。

 しかも、何よりも重要なのは、その訴えるべき中身、「開院式」的な儀礼と形式をどのように改革するのかです。それについては、記者とのやり取りのなかで具体的には述べられていません。「玉座」を廃止せよ、天皇の出席を規制せよと主張しているのでしょうか。それとも「玉座」の高さと場所を変え、そこに座って儀礼的・形式的に発言だけを認めるべきだというのでしょうか。あるいは、「お言葉」それ自体も規制せよというのでしょうか。憲法では、天皇は国会を召集することを規定しています(7条)。また、国会法では、国会の開会式は衆議院議長に任せられています(9条)。この2つを会わせると、天皇は国会を「召集」するだけでよく、開会式は衆議院議長 が執り行うことになります。そうすると、「玉座」と「お言葉」は不要です。日本共産党は、どのように考えているのでしょうか。どのような形式と内容が主権在民の精神に合致した国会開会式であると考えているのでしょうか。記者団からは、このような問題が質問されていたのではないでしょうか。また、志位委員
長は、記者の質問に答えることを通じて、多くの国民に対して、日本共産党の国会開会式の改革内容を明らかにすべきだったのではないでしょうか。

 常任幹部会で理論政策問題を担当していた小林栄三さんは、かつて国会開会式が「開院式」の形式を踏襲し、そこで天皇が「お 言葉」を述べることはもちろん、そもそも天皇が国会開会式に出席し、発言すること自体が憲法に違反すると厳しく指摘していました(『天皇制問題――日本共産党の見解』(1989年)所収の小林栄三「天皇制問題での主権在民原則の擁護のたたかいについて」16頁)。志位委員長は、この小林見解を繰り返し強調しなかったのはなぜなのでしょうか。これは小林個人の意見だというのでしょうか。そうであれば、日本共産党の基本的立場は、どのようなものなのでしょうか。

(6)悪しき波及効果?

 公立学校の先生方が、卒入学式において、日の丸の掲揚と君が代の斉唱を拒否して、処分不当を求めて全国で裁判闘争が行なわれています。裁判所の判断は冷淡です。教育委員会と学校長が、掲揚された日の丸に向かって起立し、君が代を斉唱することを職務として命令しても、それは卒入学式を執行するための儀礼的・形式的な行為であって、思想・良心・信教の自由を侵害するものではないというのです。真面目な教職員が、この裁判法理を打ち破るために人生を賭けて闘っています。志位委員長!、あなたは、このような裁判法理をどのように論じてきたのでしょうか。思い出してください。

 国会開会式の模様は、ユーチューブで見ることができます。天皇は、菊の紋章の入った公用車に乗り、万全の警備体制のもとで、国会の正面玄関から入り、整列した国会職員によって出迎えられます。そのまま議事堂に入り、議場では緊張した面持ちの国会議員らがすでに起立しています。「玉座」にあがり、その右下に日の丸が立てられています。君が代は歌わないのかもしれませんが、非常に厳かな儀式です。この儀礼と形式こそが憲法の国民主権の精神と条項に反しているのです。国会を開会するにあたり、天皇が「玉座」に座し、「お言葉」を述べることが憲法違反なのでです。そこで、たとえ世界平和などの言葉が語られようとも、そのような儀礼と形式が国民主権に 反しているのです。小林栄三さんは、この儀礼と形式が憲法に違反すると批判したのです。志位委員長は、この荘厳な儀式のなかから、天皇が話した「お言葉」の内容の部分だけを切り取り、それが儀礼的・形式的になっていると述べましたが、国会開会式全体から「お言葉」の内容部分だけを取り出すことはできませ
ん。たとえ取り出せたとしても、それによって、国会に到着する前から開会式が終了するまでの国会開会式の儀礼と形式の全過程の問題は解消されません。嘘だと思うなら、ユーチューブを一度見てください。

 裁判闘争を闘っている先生方、支援する民主的弁護士、共産党員は、職務内容は儀礼的・形式的と述べた判決の撤回を求めて闘っています。卒入学式での校長の発言内容に反対しているのではありません。アメリカ政府の対アジア政策を賛美し、自民党政府の教育政策を支持する発言を行なう校長などいません。式の儀礼性と形式性に反対して闘っているのです。日本共産党の国会議員は、この先生方と同じように、あるいはより果敢に国会開会式の形式を抜本的に改革するために、積極的に対応――例えば、起立を拒否するとか――するおつもりなのでしょうか。まさか、そんなことはしないでしょうね。しかし、裁判闘争を闘っている先生方は、その「まさか」を行なったが ゆえに処分されているのです。 私は、日本の民主主義と教育の自由をめぐる裁判闘争に対して、志位委員長の見解表明が複雑な影響を及ぼし、波紋を投げかけるのではないかと懸念しています。「志位委員長にはしごを外された」ような気がしてなりません。注視したいと思います。