羽曳野市長選挙の惨敗は大阪の共産党の栄枯衰退の歴史を学ぶ標本である。


羽曳野市長選挙の惨敗は大阪の共産党の栄枯衰退の歴史を学ぶ標本である。

 令和2(2020)年7月12日羽曳野市長選挙が執行された。5人の候補者が争ったが、共産党は断トツの最下位であった。この結果は小さな地方都市(人口110,512人)の選挙結果であり余り注目されていないが、この羽曳野市は共産党の市長が昭和48(1973)年に当選しその後4期務め、平成元(1989)年に落選した。全国での共産党員の町長や市長は少数誕生しているが、これほど息長く共産党の市長が存在した稀な都市である。
 この羽曳野で長く市長を務めたのが、津田一郎という人物である。彼の経歴は昭和24(1949)年に共産党に入党し、レッドパージの後、昭和30(1955)年高鷲町議に当選。のち合併で羽曳野市議となり、昭和48(1973)年共産党推薦で羽曳野市長に当選した。彼の学歴は高小卒であり、紙芝居屋のおじさんでもあった。大衆の気分感情にマッチした候補者であったと思われる。
 この時期(昭和48年)になぜ共産党の市長が誕生したのか、「それは部落解放同盟の行政に対する介入が最高潮となった時期であり、その中でも羽曳野市は最も悪質であった。市の予算に占める同和予算の割合が32.3%もあり、行政が同和一色になり、ゆがみが発生していた。津田一朗氏は同和行政の独占管理(窓口一本化)を要求する「解同」(部落解放同盟)と同和向け公営住宅の入居をめぐって「公正・民主の同和行政」をかかげ、市長監禁を含む120日にもおよぶ市庁舎占拠などの「解同」の激しい暴力的市政介入と戦い抜き公正民主の市政を実現、「『解同』の了解なしの同和行政は存在しない」という府下自治体を覆てきた「悪弊」を打ち破り、その後の同和行政の進路に全国的な影響を与える画期となりました。」(「日本共産党が与党として切り開いた大阪における革新・民主の政治こそ21世紀に生きる流れ」)平成16(2004)年5月 日本共産党大阪府委員会から引用。
 この素晴らしい戦いと実績を今日の大阪府委員会は全く理解せず、戦いを放棄して、選挙戦のスローガンは「安全・安心・やさしい大阪」という主張をメインに戦っているこれでは選挙では全く通用しない概念である。現在の共産党の方針を国民が歓迎しているか、この令和2(2020)年7月12日に執行された羽曳野市長選挙の結果を見てみたい。



 平成元(1989)年、年津田一朗氏が敗北した際の得票率は、46.49%あり、その後2000年代前半は、平成16(2004)年には得票率40.18%、平成20(2008)年は40.19%獲得し負けはしているが共産党の存在感を完全に維持している。
 ところが平成24(2012)年の選挙では立候補者が3名あり、自民、大阪維新、共産党の3名が立候補し、この段階で自民・民主推薦が47.18%、大阪維新が33.57%、共産党は19.24%と完全に維新の進出で共産党の地盤の崩壊が始まる。つまり維新の台頭に共産党は対応できなかったことを現わしている。
 平成28(2016)年は現職の北川氏との一騎打ちになったが、共産党は16,151票32.44%獲得している。
 令和2(2020)年今回の市長選挙で、共産党は津田一朗さんが築いた財産をすべて失い、得票数3465票、得票率7.53%大阪の他都市の共産党の票まで滑り落ちた。(大阪の他の衛星都市と比べても悪い方のランキング迄滑り落ちた。)この責任は大きいと思われるが、赤旗は羽曳野市の選挙の総括を載せていない。まさに先に引用した「日本共産党が与党として切り開いた大阪における革新・民主の政治こそ21世紀に生きる新しい政治に流れ」(平成16(2004)年5月)という展望がすべて消え去ったしまった。この時代(2004年)の方針に対して羽曳野市長選挙の総括をキッチリ行わないと共産党のさらなる躍進はかなえられない。





参考2:平成24(2012)年選挙戦での勝敗を決するカギは何か、鹿児島知事選挙はそのことを教え
    ている。(当HP内)リンクを張っている。
     見出しは鹿児島になっているが、羽曳野市長選にも相当言及している。ぜひ読んでみて
    ください。

補足:この文書を書くにあたって元津田一朗市長の「共産党市長でえらいすんません」「津津田一朗+か
  たおかしろう著」の本を読んだが、とても面白い本であった。津田一朗共産党市長の誕生が偶然の産
  物ではなく、この人物の持っているすごさ、人柄の良さが生み出した事が良く分かる。
   共産党は、選挙は赤旗の部数で決まると豪語しているが、私は候補者の人間的魅力を重視する。
  津田羽曳野市長の当選は、彼は強かであり、着実に地域おこしを行っている。
   私は彼が紙芝居屋を行っていたことは知っていたが、それまでにサラリーマン生活があり、定年後
  に始めたと勝手に理解していたが、彼は昭和23(1948)年から大阪の機械製作所の労働者として働
  き、党の指導を受けながら、職場での労働組合づくり、今一つは居住細胞の党活動に献身することに
  なる。そして23歳の時紙芝居業に転身した。
   その後「ここは日本の土地だ!アメリカ兵はアメリカへ帰れ!」というビラをまき、警察に捕ま
  り(米占領下目的破壊行為処罰例)裁判闘争を行っている。
  紙芝居を始めて6年後(28歳)に昭和30(1955)年4月高鷲町会議員選挙立候補し最下位で当選。
  (昭和31(1956)年高鷲町は、隣接する市町村、埴生、西浦、駒ヶ谷、丹比の四村と合併し、新しく
  南大阪町という名前に生まれ変わる)29歳で結婚。合併により、南大阪町の議員は106名にもなり、
  新しく南大阪市の町長選挙と町議員選挙(定数30名)が行われた。共産党は候補者2人に絞ったが、
  支持者からの強い支持があり、落選覚悟で立候補することになり、27位で当選した。(共産党議員3
  名)彼は当選後、最初に目を付けたのは、職員組合が全くの御用組合であることに気づき、労働組合
  の体質改善から取り組んだ。毎日毎日、これはと思う若い職員と話し合い、職員組合を真にたたかう
  労働組合に変革していく必要性を説き、そのメンバーを増やしていき、組合大会で現執行部を総辞職
  に追い込んだ。その後組合は職員労働組合として再建され猿橋真氏(当時、衛都連副委員長)の指導
  を受け衛都連(自治労大阪府本部衛星都市職員労働組合会)に加盟、たたかう労働組合として出発す
  ることになる。
   さらに彼は地域の基盤づくりを考え、街に根付いて働く中小商工業者の組織である民商つくりを始
  めた。家に玄関3畳に間を事務所して、そろばんもできない、税金も全く分からない中で立ち上げ、
  5〜6年後に2千人の大組織に作り上げた。
   こうして津田一朗という男は、自分が市長になった時の基盤組織をしっかり確保していた。彼は市
  長になった際に解放同盟に120日間市役所を占拠されたが、その彼を支えたのは組合の幹部であっ
  た。(解同の無法な暴力に屈せず、大きな傷を負いながらも市長を支えた。) この彼の活躍こそが
  政治であり、羽曳野市民の多数が共産党の市長を推薦した。第四期目の時は無投票当選である。(相
  手候補いなかった。)全国的に共産党の市長はいるが、市長選挙で共産党推薦で対立候補が出なかっ
  たのはこの選挙だけである。 この津田一朗市長の奮戦記を読んでいるとこれが本当の共産党員だと
  思う。現在の共産党が、赤旗を増やせば党は躍進すると訴えているのに対して、彼は市民に依拠し、
  職員に依拠して戦いを推し進めている。労働組合と民商を育てていった彼の着想及びその手腕に感心
  する。この彼のやった事こそが本来の共産党である。
   党内で彼をどう評価しているのか、彼を中央委員にしたというような話は聞かない。近隣の市政
  運営等に彼からノウハウを学んだという話も聞かない。わたしも彼が羽曳野市長の際に同じ衛都連に
  参加していたが、この本を読むまで彼がこんな立派な人だとは気づいていなかった。今年の7月12
  日に行われた羽曳野市長選挙で、共産党の獲得票数は3465票得票率7.53%である。津田市長
  の功績をすべて踏みにじった結果になっている。深刻な総括が必要である。

補足2:津田一朗氏の本の読んで新しく得たその当時の状況
   ★大阪府の市長会の様子(解同べったりが分かる事例1)
    大阪府下の市長31人集まる会なんですが、そこへ出席したらいきなり某市の市長代理が決議案を
    よみかけるんですね、「津田市長は間違っている。だから窓口一本化で解放同盟の言うことをき
    くことがただしい」という意味の決議案ですわ。そこで私、「ちょっと待て」と「なにか? こ
    の市長会はそういう他市のことを批判したり忠告したりする市長会か? わし、そんな市長会や
    ったら脱会する。わしは羽曳野市民に選挙で公約したとおりのことを実行しているのやない
    か・・・・・」と喧嘩した話が載っています。(共産党員市長で えらいすんまへんp105) 
    (解放同盟は市長会迄牛耳っていたということです。)
   ★副知事がわざわざ現れ、解放同盟の言うとおりにせよと圧力をかけてきた
    羽曳野市の同和住宅が完成し、窓口一本化方式を否定し、市が入居者を選びかカギを交付する日
    に起こった事件、
     市長は鍵を渡しに、もうそろそろ行こうかなあと思うてた矢先に、3階の市長室から下をみて
    たら、黒い車がずーと入ってきましてン。あ、誰かいな? と思うたら、私みたいな小っちゃい
    人が、ちょこんと座っとる。あ、副知事やな、こう思いましてね秘書課長に、「おい、これか
    ら、わし鍵渡しに出ていくからな、副知事来られたらすぐ帰ってきますいうて待っとってもら
    え」いうて出ていきましてね、そんで百人集まったはるところで挨拶して、鍵を一つ一つ渡した
    んです。ねえ、皆喜んで返りはりました。
     帰ってきたら岸副知事が、「鍵を渡すの待ってくれへんか」と言われたが、「あ!岸さん遅か
    ったあ! いま渡したらみんな喜んで帰りましたがな」岸さん、プーと怒って帰らはった。・・
    (黒田知事が風邪ひきで床についていた隙間を狙って副知事は動いた)(「共産党員市長でえら
    いすんまへん」p117〜118)