外交の基本(共産党が投げ捨てたもの)



  私は最近JRで通勤中(約1時間)の読書三昧を楽しんでいる。そして、帚木蓬生(ははきぎほうせい)にはまっています。この間読んだのは、臓器農場、閉鎖病棟、逃亡、三たびの海峡、そして今読んでいるのが「ヒトラーの防具」です。この中で私が一番面白かったのは「逃亡」です。一番勉強になったのは「ヒットラーの防具」です。

 私のブログに、「北朝鮮の「衛星」(ロケット)問題」については、「軍事的対応でなく、外交的努力が重要」と書きましたが、この小説(ヒットラーの防具)は第二次世界大戦前後のドイツでの外交外交武官(注1)の話ですが、現在にも通用する外交とは何かが書かれています。

注1:当時は日本大使館には政府から派遣された大使がおり同時に軍から派遣された武官がいた。軍か 
    ら派遣された武官は大使館内での統帥権の独立を主張し、軍の意向に沿った活動を行っていた。この小
       説では大使は日・独・伊の三国同盟に批判的だが武官は日・独・伊の三国同盟を強引に推進しようと
       する。

 小説の主人公(香田中尉)は武官ではあるが、ユダヤ人を迫害するドイツのあり方に疑問を抱き、日・独・伊の三国協定に批判的立場を内心持ち続けている。

  ドイツに批判的であった大使が更迭される際、この主人公である香田中尉に話した内容に私は感銘した。以下引用すると

大使・・「外交官はいわば丸腰で戦っているようなものです」「戦う相手の力を見極めることが第一に要求されます。
      銃をちらつかせて相手を脅かせばもう外交とはいえません。こちらの「武器」はあくまでも、相手の力と立場を
      どれだけ理解しているかという「知力」なのです」

香田・・「知力?」

大使・・「はい、その知力には、相手国の間違った道筋を指摘してやることも含まれています。軍事力のない小国の
     外交官には、そうした知力のある外交官が時折います。大国の外交官になればなるほど、丸腰であるべき本
     来の姿を忘れるものです。私が外交官として相手国の外交官と接するとき、まず評価するのがそこなのです。
     どれだけ相手が丸腰になっているかです。腰にピストルをぶら下げているような調子で近づいてくる外交官は
     もうだめなのです。リッベントロップ(注2)がその代表でしょうね」

注2:ヒトラー内閣の外務大臣1938年から1945年にかけて務めた。最終階級は親衛隊名誉大将。ニュルンベル
     ク裁判により絞首刑に処せられた。

 さらにこの大使は左遷後、自分の後任の大使(大島中将)が日・独・伊の三国同盟をなるべくドイツよりにしようとしている状況を見て、香田中尉に手紙をよこしてます。その中に以下のような行があります。

 「手紙」・・

  国が国を盗るなどは、封建時代ならともかく、近代において行うべきことではありません。国土は、そこに住む民のものです。朝鮮は朝鮮、中国は中国人の所有に帰すべきもので、この理屈は1+1=2となるのと全く同じでなのです。

  ところが国が充実してくると、何時の間にか、この簡単明瞭な事実を忘れがちです、武力が強ければ強いほど、この傾向が深まります。まして相手が弱者であれば、力づくでこれを奪うことに、何の躊躇も感じません。

  真理は常に弱者の側に宿る―これは、小生が外交官になってから、いや、学を志したときから、胸に思い続けている事です。真実が何処にあるか分からなくなったときは、弱者の位置に立って物を考えてみると、道筋が見えてきます。

 この二つの文書は、北朝鮮の「衛星」(ロケット)問題に対応する場合にも通用する論点です。

 共産党は2009年の時点での対応は、明らかに(弱者である)北朝鮮の主張に耳を傾けようとし、軍事的圧力でなく、外交努力で解決しようという立場でした。しかし、今回の対応は「北朝鮮の主張は「へ理屈」だ」と決め付け、アメリカを中心とする軍事的圧力側に回りました。このアメリカは絶対的な軍事力を背景に、世界中の支配をめざし、言いがかりをつけ、侵略を繰り返しています。ベトナム戦争、湾岸戦争、イラク戦争、アフガニスタンにたいする一方的な軍事的介入などその事例は。枚挙にいとまがありません。

 このアメリカ帝国主義の本質に目をつぶり、共産党の主張(志位委員長の「声明」)は、帚木 蓬生氏が指摘した二つの視点、「弱者の立場に立って物事を考える」、「外交は武力でもって威圧してはならない」を投げ捨て、強者の論理に屈服し追随するという醜い姿をさらけ出したものです。

 これが共産党のいう「保守との共同」の行き着く先です。