江戸の狂歌 「白河の清き流れに魚住まず 元のにごりの田沼恋しき」


  あるいは、「世の中に鈴虫ほどうるさきものはなしりんり(倫理)といふて夜もねられず」というような江戸の狂歌・川柳を中学の社会でならったことを覚えています。
 最近の赤旗も「政治と金」の問題に力を入れ、小沢氏の問題や前原氏の外国人からの献金問題に力を入れています。しかし何かおかしいと思いませんか。清潔な政治が大切なことは良くわかります。しかし政治に求められているのは果たしてそれだけでしょうか。政治家をお金(倫理)面で追い詰めつぶしていくことが正しいのか疑問に思います。

  たとえば、前原氏のこの問題を取り上げた赤旗は(今現在手元にないので記憶だけですが)外国人から政治献金を受け取るという見出しを掲げ、サブ見出しに暴力団関係者からも献金か?見たいな記事になっていました。この見出しの最大の誤りは外国人と暴力団を同列に扱い、あたかも外国人は「悪い人」とのイメージを振りまいたことです。

  共産党は外国人の地方選挙権での参政権付与にも賛成しており、その立場からこの問題に対する発言を行うべきでした。古くから顔見知りの焼肉屋のおばちゃんの5万円の献金が、政治にどのような影響を与えるのでしょうか。法律違反だから議員辞職すべきだという言葉にはあきれ返ります。
  この問題で共産党が主張すべきであったのは、外国人の政治参加を促進する立場から、政治資金規正法のこの条文が外国人の人権を不当に奪うものだと主張すべきでした。 話が長くなるので小沢問題はおきますが、これも村木事件に見られたような検察の暴走が、国民の前に明らかになった状況下で、この視点からの追求を疎かにしたら、お金の問題は取り締まれても、民主主義の形骸化に手を貸すことになります。

 マックス・ウエーバーは「職業としての政治家」の中で、政治はどこまでも政治であって「倫理」ではない。その意味で政治一般に対するセンチメンタルで無差別な道徳批判は、百害あって一利もない。」と言っています。

  政治と倫理の問題は、倫理のみが上回り、政治家としての実力や能力を評価しないと結局政治そのものがダメになってしまいます。