橋下知事の功罪、個人的野心で「独裁」を狙っているが

       彼は政治とは何か、政治家とは何かを示してくれた。



  橋下徹は稀代のペテン師であると同時に、優れた政治家でもある。私はこの間「職業としての政治家」とは何かを考えている。共産党は「職業としての政治家」の概念がなく、全ての議員を「事務員」にしてしまったことが最大の失敗ではないかと思っている。

  共産党の議員の役割は何か、国会議員レベルはわからないが、市会議員、府会議員レベルは、議会活動より党務に専念している。その主要な内容は赤旗の拡大、配達、党員の拡大、支部活動の指導等と思われる。天下国家について議論する暇さえない。四六時中走り回っている。みんな人のいい人だ。

  しかし、共産党の最大の誤りは赤旗を中心とした党活動に全てを押し込んでしまったことである。この人は政策能力が優れている、この人は演説がうまい、この人は大衆運動に長けているといったいろんな人材を発掘し育てていない。

  赤旗を増やし、党の支持者を増やし、そして選挙で勝利する。選挙での勝利は赤旗の拡大の裏づけがない限り絶対にありえないという図式を共産党は作り出してしまった。そのため全ての党員は(議員も全てが)赤旗拡大のノルマの中でつかれきっている。天下国家の問題を議論する暇など全くないのが共産党の現状だ。

しかし、橋下徹は政治とは大衆の気分感情をつかむことだ、指導者の持っているアジテータとしての力量が、雌雄を決することを見せてくれた。(小泉元首相が手本になっていると思われるが)

  私は子どもの頃、父親と遊んだ記憶は一切ないが、、父親に連れられて京都の丸山公園で政談演説会に行ったことは覚えている。そこには大衆の熱気があった。また二条城の近くに住んでいたのでメーデーも良く見に行った。そこにも労働者の戦う姿があった。(私はそれを見るのが好きだった。)さらに選挙になればいつも新聞を見ていて、自民党と社会党の力関係が変らないのを見て、この国の政治は永遠に変らないのだろうか思っていた。高校生のとき、円山公園の近くの映画館に行こうと思って電車に乗っていたら、大学生のデモに遭遇した。「偉いな」と思った、私が大学に入ったらこの運動ができるのだろうかと思ったことがあった。

  大学に入り、私も学生運動に足を踏み入れた。そのころの私の生活は充実しており、我々の運動で世の中は変ると思っていた。(現に共産党は選挙のたびに倍倍に伸びていた)そして就職し、そこでも活動に明け暮れたが、それなりの充実感があった。黒田革新府政ができ、1973参議院補欠選挙でくつぬぎタケコさんが森下仁丹を抜きトップ当選した。このころは本当に共産党が多数になることは近いと思っていた。

  ところ1972年「新日和見主義批判」なる大論文が赤旗に掲載された。そこでは我々の学生時代の運動等が批判され、大衆運動を通じて革命をという路線は批判され、赤旗拡大により地道に党支持者を拡大し、選挙で勝利するという方針が確立していった。
  私は現在この論文を持っていないが、覚えているのはパッション(情熱)を梃子に大衆を組織するような運動は間違っているという批判があったように記憶している。

  なぜ、我々が大学時代感じた「胸沸き、心躍る」ような感情はだめなのかと思ったがその後の党活動は大衆から離れていった。

  橋下徹のやっていることは共産党が否定した、大衆の心情をうまくつかみ扇動している行為である。(これがペテン師的演説になっているところに問題はあるが)労働者の賃金が下がり、大学を卒業しても就職先はない、また年金はだんだん切り下げられ将来の展望のない閉塞感があるこの社会で、「既存の秩序をぶっ潰す」という訴えに府民の4割が賛同するこの現象は、府民は何らかの形で既存秩序と戦うことを求めているが、その気持ちの持っていく場所がないことの表れだと思う。橋下徹はこの気持ちに入り込み扇動して府民から喝采を受けている。

  共産党はパッション(情熱)を否定したが、この間起こったジャスミン革命も全てはその国民の耐えがたき不満を引き出し運動化したことによって成功している。こうした大衆の気分を正確に捉え、それを運動にする力こそが「政治」であり、橋下徹は、政治とは何かを改めて示してくれた。この日本にも立ち上がりたい国民はたくさんいるのである。それを運動化できる政治家(職業としての政治家)がいないのである。 
  
  ついでに蛇足ながら、共産党はなぜ橋下徹に人気が集まるのかを把握できず、相変わらず旧WTCの購入は間違いだと批判している。この批判では橋下徹は痛くもかゆくもなく圧勝に終わるであろう。(ただこの間の週刊誌の批判は橋下徹人気には相当打撃を与えるだろう。)
  しかし週刊誌の批判は正しくなく、人権問題であり、共産党がこれに手を染めてはならない。正論で堂々と勝負すべきである。