日本共産党 最近おかしくないですか

T・Yさんへ  私からも一言


平成27(2015)年11月23日


植田 与志雄

 
 このページは、投稿欄にT・Yさんが「反戦運動を行いたいが何かアドバイスを」と投稿されたことに対して、植田 与志雄さんから投稿していただいた文書です。
 この投稿の内容は、単にT・Yさんへの励ましにとどまらず、日本社会の民主化を考えておられるすべての人々に対する呼びかけになっています。是非読んでみてください。
 なお投稿は昨年11月23日にいただきましたが、高校生の投稿者が、投稿が未熟であったので、再度考えて投稿したいと申し出があったため、掲載を見送っていましたが、再投稿を待ちきれず、今回、公開することにしました。 


                                                平成28(2016)年1月2日 エガリテ

 私はこのエガリテさんのページの読者です。
 エガリテさんの、自分の頭で考えて自分のことばで語る姿勢にとても共感と敬意を持っています。
 そこでT.Yさんとエガリテさんの交流を読んで、自分もT.Yさんを応援したくなりました。
「実践のさなかにおいてまさに理論が個人の中で確立していくものだと思うのです。
 僕自身、デモや集会に参加するようになってからマルクスやレーニンの言葉が身に染みるようになってきました。参加する前と後では”共産党宣言”も”国家と革命”も全く違うものとなりました。
 初めに『自分の立ち位置を』と書いたので、ここにはっきりと『反戦運動がしたい』と明言したいと思います」
 このコトバを聞いてとても嬉しくなりました。
 私はこの道(?)に入ったのは40年以上昔ですが、今までにソ連の崩壊などいくつかのショッキングな経験がありました。T.Yさんの何かの参考になればと思って自分の経験を重ねて思うところを少し書いてみます。
★「マルクス主義に理論的拠り所を求める」とは:T.Yさんは自分の立ち位置を「戦いに貢献、参加する」と言い切っています。不公正や悪を許さない情熱を感じます。「反○○」の戦いですよね。私はこれに加えて「マルクスを現代につなぐ」ことも重要と思っています。私は反○○の先に自然に社会主義なりの次の社会が見えてくる、そう思っていましたが、このごろはどうもそれだけでは片手落ち、と思うようになったのです。つまり「抵抗運動とつくる運動」、誤解を恐れず単純化して言えばこれは「破壊と創造」で両者は連続性もあるけれど少し質的に異なる内容を持っている。マルクス主義運動は前者中心に偏っていたと思うのです。ユーゴ研究家の岩田昌征さんは最終講義でソ連の建設当時の状況を「反資本主義が第一でそれ以上の設計図やプランは存在していなかった、肯定的な形での社会主義の検討はできなかった」と語っています。反○○での否定形での議論も重要ですがこれとは別に、肯定形での探求が今はもっともっと必要でしょう。肯定形での探求とは無数にある未来の中からの選択で、ここが反○○とは違うところです。反○○は○○の悪いところが誰の目にもはっきりしていているので反○○で団結しやすいのです。 人の悪口では団結しやすいのと似ています。肯定形での一致は無数にある未来の中からの選択ですから簡単には一致できません。過去は知ることができるが選択できない、未来は知ることができないが選択できる、の前者と後者に当たるのでしょう。朝日新聞12月23日朝刊に「フランスの右翼政党の台頭」と題してこのような記事がありました。「政治家が人々の不安や不満に敏感になること自体は民主主義という観点から見ても健全なことだ、ポピュニズムの問題点はその不安や不満が『敵を取り除けば解決する』という20世紀的な考え方に縛られていることだ。貧困があるからと言って資本主義をなくせば問題が解決するわけではない。グローバル化した現代社会は複雑で政治課題を簡単に解決する方法などない。現実の政治は交渉と妥協の産物なのだ」(パスカル・ペリノー/パリ政治学院教授)。
 マルクス主義について言えば「19Cマルクスを21C現代につなぐ」ことが求められている、「マルクス主義に理論的拠り所を求める」とはマルクスに学ぶけれど、これに拘らない、カッコよく言えばマルクスを超える、であって「マルクスにつながれる、縛られる」であってはならないと思います。それは墓場のマルクスがもっともガッカリすることでしょう。さて、そのようなつもりで「革命」について私なりに考えてみます。
 ★革命を本気で考えられるのか:一定の経済的、社会的、思想的水準に達した社会における変革はマルクスが描いていたものとはまったく別のものとしてしかありえないのではないか。生産力の水準が生産関係、生産様式を規定するのと同じように、社会の民主主義の水準が社会の変革のありかたを決めるだろう。マルクス、レーニンの時代には「革命」が合理的だったのかもしれない。資本主義が最高度(過ぎてみなければ分からないけれど)に発達した状態からの改革、社会主義の出発点へ向かう変革はどのような形ですすむのだろうか。例えば変革の主体は何か、この超複雑化・超グローバル化した社会経済システムの改革の主体は「立て飢えたる者」ではなさそうだし、さらに言えば現実社会を一度更地するような「革命」も現実的でないと思える。「革命」は暴力を含むか否かを問わず、この超複雑化した社会経済システムの変革のスタイルとしてとうてい現実的とは思えないのです。マルクス主義で言う革命とは簡単に言えばリセット、更地化と思う。このような革命路線は現実を見た上での変革の真面目な議論の対象にはなりえるのだろうか、厳しい自己点検を要すると思う。資本主義(現在システム)の限界を設けない改革、より賢い選択を一つづつ探るしかないのではないか。冷静に見れば社会の根本的な改革は歴史を見れば常に社会の先端部分から生まれ、決して底辺からではない。そういう点ではJCPの不破氏が最近語っている「資本主義から社会主義への過渡期は100年超を要する」は「革命」の実質的な放棄で、「ルールある資本主義」は「革命に代わる過渡期100年」を指すと理解して、ここは同感です。
 ★ちょっと古いですが20回大会1994年綱領一部改訂にあたって不破報告から抜粋:
「もし日本の革新・民主の勢力が、民主的規制によって経済管理の国民的な経験を蓄積することをぬきにして、いきなり国有化から経済改革に手をつけようとすれば、たとえそれが一定のかぎられた部門の問題であったにせよ、国民的な理解をえることもできないし、実際の経済的な成功を保障することもできないだろう。現在の社会の胎内にそだっている「発達した諸形態」はなにかということを非常に熱心に研究しました。現在の社会の胎内にそだっている「できあいの諸形態」を最大限に活用しながら、それをテコにして前進をはかる、ここに彼らが注意を集中した点があったのですが、わが党の「独占資本にたいする民主的規制」の方針の根底にあるのも、理論的には同じ見地であります。今日では、それにくわえて、過渡期に本格的にふみだすこと自体が、人類史上未踏の分野に属することを指摘しなければなりません」
 私はこれに基本的に賛成です。従来型の「更地にする革命」をやめたものと思います。ある見方からすればこれは転向かもしれませんが、私には進歩と取れるのです。
 ただ、今のJCPはあまりにも現代資本主義、現代社会の理解が手薄で資本主義の改革の頼りにならない。
 現代社会の変革のかじ取りを任せる気にならない、これが国民多数の意見でしょう。さらに言えば今までのような「革命を目指す党派的な組織」は「空想的でない現実設計に基づいた改革」を進めるには不適と思う。革命によってそれまでの悪や膿を一掃する、リセットする気持ちが深く入り込んでいるから、現代資本主義は廃絶する対象であって改良する対象ではないのだから地道な研究や改革への意欲がとても弱い。革命を肯定したとしてもこれでは革命の入り口にたどり着くことも困難なのではないか。
 ★党の体質は天動説:例えば「前衛党は一つだけ」、これがJCPの基本理念ですが、これは単純に言えば「自分は正しい」の絶対化で、17世紀まで続いていた天動説に似ていると思う。天動説とは自分は動いていない、動いているのは天だ、ですよね。自分の絶対化、自分を不動のもの、自分を基準とする考え方だと思います。戦後の日本共産党は知識人からしばしば北極星になぞらえられることがあります。「党は北極星のように、羅針盤のように不動で、これを見れば正しい位置と進むべき方向が分かる。党がどのように見えるかで自分の位置がどの程度正しいのか間違えているのかが判る、自分がどれだけ間違えた方向に進んでいるのか、あるいはどれだけ正しいのかが」このように言われてきたもので、共産党自身も自分をそのように誇らしく自覚しています。戦前からの天皇絶対制に反対し続けてきたことが評価されたからでしょうが、この過剰な評価はいわば粉飾決算で党の自己改革を妨げる障害となっていたと思います。真理はそれに限りなく接近できるもので唯一のものだから、いくつもあるものではない、共産党はそれを目指している存在、だから前衛党は一つなのだ。長い間、共産党員を支えてきた心情の底には善意から生まれていてもこのような客観的には傲慢と言える心根、自分こそが我々こそが真理に一番近いところにいるという想いがありました。天動説は自分自身を客観的に正しく見ることができない。もちろん私もそうでした。党の体質は反○○の○○を殲滅するための実行部隊として有効なもので、肯定形での探求には不向きというより障害となると思うのです。中坊公平氏は議論の発展過程を「類似意見がまとまって探求と検討が深まり、対立意見との類似と相違が整理され明確になる、複数意見間で相互浸透、競争、淘汰が生じる、この過程で少数意見も成長し、多数意見の誤りも発見修正される。競争は比較と評価を生み、評価は選択を生む。競争のないところにはまっとうな評価も選択も存在しない。複数の意見は交流によって消化されつつ変容、進化する」と明確なイメージを持って生き生きと語っている。こういう党をつくりたいですよね。長くなったのでこの辺で。以上