大島渚監督の死亡報道に接して

     思想性を失い、セクト性だけが残った赤旗


                                                                                                       平成25(2013)年1月17日

はじめに

 赤旗は1月5日付けで2013年党旗びらき 志位委員長のあいさつを載せているが、その中で、「参院選勝利へー「国民に溶け込み結びつく力」を豊かに発展させる探求と努力を」という見出しを掲げ、党員に「国民に溶け込む」ことを求めている。しかし、国民と溶け込むには、個々の党員が一般的社会的常識を身につけていなければそのことは不可能である。

<大島渚監督の死を共産党はどう扱ったか>    

大島渚監督の死亡は、一般紙やテレビで大きく報道された。例えば16日の毎日新聞は、一面で「大島渚さん死去」 80歳

 「愛のコリーダ」「戦場のメリークリスマス」などで知られる映画監督の大島渚(おおしま・なぎさ)さんが15日午後3時25分、肺炎のため神奈川県藤沢市内の病院で死去した。80歳。通夜、葬儀の日程は未定。喪主は妻で女優の小山明子(こやま・あきこ、本名=大島明子)さん。 そのあとに、彼の活動を詳細に伝えている。

 さらに27面で、「タブーに挑み続け」、「芸術?わいせつ?論争起こす」見出しをつけ、体制と戦い表現の可能性を追求し続けた映画監督、タブーに確信犯的に挑んでスキャンダルを巻き起こし、存在そのものが事件となる数少ない映画作家だった。として彼の作品を紹介している。

 その一部を引用すると、在日韓国人の死刑囚を主人公に、日本の権力構造の矛盾を風刺した「絞死刑」、家父長制の中で生きる若者の悲劇を描いた「儀式」。あるいは第二次世界大戦時に捕虜になった英国人と日本兵の愛憎渦巻く関係を描いた「戦場のメリークリスマス」、チンパンジーと人間の女性が恋に落ちる「マックス、モン・アムール」、新選組内での同性愛を扱った「御法度」。題材は常に挑戦的・挑発的で、秩序や常識を問う物語を作り上げた。

 私は大島渚監督作品をあまり見ていないが、「戦場のメリークリスマス」は良い映画であった。さらに朝まで生テレビの大島渚氏の活躍はほぼ見ていた。

<赤旗は大島渚監督の死をどう伝えたか>

 赤旗で大島監督の死が報道されるか、注目していたが、この日(16日)の赤旗新聞の訃報欄には、弁護士坂本福子さん(写真付き)、演出家・池袋・小劇場代表 関きよしさん(写真付き)、ラムサール賞受賞 辻井達一さんの報道がなされ、そのあとに大島渚さ(映画監督)が死去したといとも簡単に報じられている。

 私がこの記事を書こうと思いついたのは、赤旗が大島渚氏の訃報を報じなかったと思い、その異常さを追求しようと思ったからである。書き始めて再度16日の赤旗を探して見てみると、アリバイ作りのような小さな記事があった。

(この間「南方週末」でも記事の見逃しが指摘されたので、安全のためによく見ると載っていた。)しかし、池袋・小劇場代表の「関きよしさん」は顔写真付きで記事の長さも大島氏の三倍近くもあるが。(他の2名もほぼ同じ)日本社会におけるこれら3名の人の評価と大島渚監督の評価と釣り合いが取れているだろうか。明らかに大島監督の業績を評価しないことを赤旗は宣言している。

 私の勉強不足かもしれないが、失礼ながら「関きよしさん」は、全く知らなかった。それに比べれば大島渚さんは、日本だけでなく世界的にも有名な監督であり、権力と対峙してきた生き方からしても赤旗が大きく取り上げるべき人である。

<赤旗を読んでいても「国民に溶け込み結びつく力」は備わらない。>

 志位委員長が党員に求めた「国民に溶け込み結びつく力」を持つには一般社会での世論の常識というものを知らなければならない。おそらく16日はどこの職場でも井戸端会議でも大島監督の業績や、闘病生活、小山明子さんの献身的な介護などが話題になったであろう。国民に溶け込もうとすると、国民と同じ目線で話をしていく能力が必要になる。その場合世間で今何が話題になっているのか、その切り口は何かを知らないと話題について行けない。

 例えば、この間で言えば、尖閣列島の問題をめぐっての中国の横暴な態度を知らず、「中国と理を持って話し合いで解決すべきだ」と話せば座がしらけてしまう。もし赤旗からしか世間の情報を手に入れていない真面目な党員がいたとすれば、なぜ共産党は「大島監督の死を伝えないの」と聞かれた際、いや大島監督の記事も載せたと主張しても、他の三人の死亡記事となぜ扱いが違うのと言われた際にまともに答えられる党員がどれだけいるであろうか。

 大島監督が大学時代から、共産党に敵対する学生運動の指導者であったから、彼の記事は小さいとか、彼のとった映画は「わいせつ」な面があり評価しないという理屈で、他の人々を説得できるであろうか。

 少なくとも党は国家権力を取ることを声明している政党である。その党が芸術に対して特定の価値観を持ち、評価し、その功績を認めないのであれば、ソ連や中国と変わらない国の運営を考えていると一般市民は思うであろう。(注1)

注1:【2012年12月29日AFP】 
    今年のノーベル平和賞に選ばれた中国の民主活動家・劉暁波(Liu Xiaobo)氏が28日、服役中の中国東北部
 の刑務所で55歳の誕生日を迎えた。誕生日にあわせ、人権団体からはあらためて同氏の釈放を求める声があ
 がっている。

<一紙で間に合う新聞・・・赤旗のキャッチフレーズ>

 赤旗が単なる政党機関紙でなく「一紙間に合う新聞」というキャッチフレーズを掲げるのなら、訃報記事における差別をまずやめませんか。古くは、原水爆禁止運動で活躍された哲学者の古在由重氏の死亡の際、一般紙は大きく報道したが、赤旗は、原水爆禁止運動の運動論の違いから共産党をさられた古在さんに対して、死亡報道をしなかった。このような、対応をやめない限り、赤旗は一紙で間に合う新聞として社会的に認められない。

<国民と結びつくために必要なこと・・国民に溶け込むのではない!>

 話は元に戻るが、再度「国民に溶け込む」という共産党の主張は正しいのか批判的に検討を行いたい。 

党中央は、党員に対して「国民に溶け込み結びつく力」を強めろというが、そのための条件整備を当中央として行わず、末端の党員にのみ課している。しかもいつの間にかそれは赤旗拡大に変質してしまう。(「国民に溶け込み結びつく力」とは大衆運動に力を入れろと号令を発したのか、赤旗拡大のために行っているのか今一つ分からない。)注2

注2:1月11日中央委員会書記局「「党旗びらき」あいさつを力に、都議選・参院選での全身をめざし直ちにダッシ
      ュしよう」の「党勢拡大を結びつきを強める重要な活動に位置づけて」という章では、「党と国民との結びつき
     を強めるうえで、党員拡大はその根幹であり、「しんぶん赤旗」を中心とした活動はその土台です。」と結局志
     位委員長の提案「国民に溶け込み結びつける力」は赤旗拡大のことだと定義づけてしまった。

<党中央に求められている課題は何か>

 大衆運動をすすめる立場から「国民に溶け込み結びつく力」の問題点を整理してみたい。

1.国民との結びつきを強めるには、「旗印」を打ち立てなければならない。

  共産党が国民と結びつきを強めようとするならば、まずその前に必要なことは、旗印を立てることである。その旗は革新統一戦線の旗である。より具体的には現状では、憲法を守る、あるいは、原発再稼働反対、あるいはTPP反対の統一戦線を作るために、国民との結びつきを強めるべきである。

 現在の共産党の主張は、「国民と共に戦う中で結びつけを強めよう」でなく、「国民に溶け込み結びつく力」と言っている。この考え方(思想)は極めて危険である。「溶け込んでしまったら」ダメになってしまうことが分かっていない。   

 この間の選挙の主張を見れば明らかなように、「安全・安心・やさしい大阪」とか「幸せが実感できる都市」など、階級的視点が全くないスローガンで。国民にすり寄ろうとしている。こんなことを行えば、思想的な崩壊を招くだけである。

 単に国民の中に入れば良いのではない、「溶け込む」ことを目的とした取り組みは「ミイラ取りがミイラになる」このことが共産党には分かっていない。(注3)

注3:私が若い頃に読んだ「労働組合活動の手引き」(?)という本に、ある程度大衆の気分感情と合わせる力が
    必要という見出しがあって、その中に実践例が書いてあった。職場の仲間が競馬に熱心なので、その人たちと
    溶け合おうと思って、競馬を始めたら、面白くなって、競馬にのめり込みダメになった事例が書かれ、共産党の
    いうように「溶け込む」のでなく「ある程度溶け込む能力」が必要と書かれていた。

2.次にセクト性を克服しなければならない。

 一番わかりやすい例が、大島渚紙の死亡記事の取り扱いである。こんなセクト性を維持している限り、共産党は国民に信用されない。

 さらに重要なことは今回の衆議院選挙で改憲派が三分の二を占めた現状で、「憲法を守る」のまさに一点で共同戦線を作ることが緊急に求められている。しかし共産党からは、統一戦線の話は一切聞こえてこない。参議院選挙に向けて安倍氏は既に動き始めている。彼らは維新やみんなの党との連携を深め、参議院でも改憲派が三分の二を取れるように画策している。

 私の若い頃、社共共闘が最大の課題であった。事実、社共共闘が成功した事例では多くの選挙線で躍進した。社共共闘は1+1=2でなく、3にも4にもなると言われてきた。共産党は「押しかけ女房」のように社会党に迫った。この社会党の看板の下、共産党が下支えすれば、国民は大きな信頼を寄せた。

 しかし社会党側は、「庇を貸して母屋を取られる」という発想で、じわじわと逃げていった歴史がある。現在共産党と社民党の力関係が変わった段階で、共産党は社民党との共闘を追い求めている姿は見えない。この実態を見れば社会党が恐れた、共産党は真に統一戦線を求めているのではなく、「庇を貸して母屋を乗っ取る作戦」だと警戒したことが正解に見える。

 今共産党は共闘の相手を保守に求めている。共産党の躍進に大きな功績のあった社民党を足蹴に扱い。今度は保守との共同にその活路を見出そうとしている。(志位委員長のNHKの日曜討論で開講一番、「保守の政治家から頑張れと言われている」との発言)

 この共産党の節操の無さが、国民との対話を困難にしている。共産党は誰の見方なのか、なぜ社民党やその他護憲勢力の結集を図らないのか、なぜ原発反対の世論が5割以上あるというのに、その意見の結集を行わないのか、この党中央の怠慢の中で、「国民と溶け合え」と言われても、政治的課題でなく。志位委員長のいう「ヘラブナ釣り仲間」しかできない。せいぜいヘラブナ釣り仲間を作って赤旗をとってもらう運動しかできない。

 共産党に今求められている課題は、国民大衆の過半数を占める憲法反対や、原発反対の世論を盛り上げていく運動主体の確立である。そのために必要なことは、セクト主義を放棄して、国防軍反対や、原発反対の全ての政治勢力の結集である。この結集を妨げている最大のガンが共産党のセクト主義である。大島渚監督もこうした統一戦線の一翼を担う人材であった。共産党の今回の措置(大島監督の死に対する報道姿勢)は、共産党は相変わらず唯我独尊の道を歩む宣言をしたものである。

<党中央が統一戦線に背を向けている>

 当中央が統一戦線に背を向けている状況で、「国民の中に入れ、溶け込め」と言われても、その旗印がない。そのような状況で国民の中に入れば、結局は競馬クラブに入ったり、飲み会に参加したり、ヘラブナ釣り仲間に参加したりしか道は残っていない。この「溶け込み作戦」が成功すれば良いが、今までは「ヘラブナ釣り」に行く約束があると言っても、何を考えているのだ、赤旗拡大優先だと常に怒られて来た党員に、大きな武器を与えてしまい、「志位委員長が重要な活動と言っていた」と主張され、それでつながりが増えれば良いが、久しぶりに行ったヘラブナ釣りが楽しく、その虜になってしまうのが関の山である。

  大衆と結びつくのも方針なしにやれば、失敗する。現状では、セクト主義を廃し、統一戦線の旗を掲げ、政治的目標を持って大衆の中へ入って行かなければならない。その基盤を党中央が作らなければならない。無責任に「大衆の中に入れ」では大衆の波に飲み込まれてしまうであろう。

 またもや参議院選挙選の敗北がみえてくる。