丸さんへ――いろいろ教えていただいてありがとうございます。



 多くの点で一致できますが。私は「躍動感」を大切にします。

 丸さんご丁寧な返信ありがとうございます。丸さんの主張それぞれ含蓄があり、わたしの粗雑な議論につねに親切な回答をいただき、共産党に対する様々な疑問に対して整理していくうえで非常に勉強になっています。

 再度私の問題意識を説明します。私はいっせい地方選挙の共産党の戦い方を見て、これはダメだと直感的に感じ、私の意見をまとめ、共産党の各級機関に「意見書」を提出したことから始まっています。その際、共産党は完全な沈黙を守り、私が「受けとった」という返事を求めたにも関わらず一切無視しました。

 この事態は私にとって全くの予想外であり、これまで共産党は最も国民のための政党であって、国民に一番近いところにいる政党だと思っていた私の幻想が破れたことにあります。私自身10数年党員であった過去があり、いろいろ幻滅して去ったのも事実ですが、やはり共産党に愛着があり、私の不十分さで党についていけなかったが、党はやはり今日の日本の政党の中で最も国民大衆の立場に立った政党だと思ってきました。(少なくとも個々の党員は今でもそうだと思っています。)

 しかし、私が今回15通の意見書を出し、出すたびに「回答は後でも良いから、受け取ったという返事をください。私の党へ対する思いを踏みにじらないでください、あなた方が回答をくれないのなら、私はこの経過をホームページで公表します。どうか私にその行動を取らせないでください。」と延々と訴えましたが党は完全に無視しました(注1)

つまり私は「ブチ切れた」のです。この共産党の体質を変えるのが私の主要課題です。

注1:正確には、中央委員会は一度だけ「受け取りました。総括は選挙後に行うのでそれまで(7月)待ってくれと読
    める文書をよこしています。」しかし私が最終回答期限を9月末に設定しましたが、何も回答はありませんでし
      た。また高槻市委員会は何の連絡も無かったので、全ての文書をプリントアウトして最寄の市会議員に面接
      して渡しました。その際、回答するかを返事してほしいと伝えていたので、7月まで待ってくれという電話を受
      けました。その後期限が切れているという催告を行い、最後通告を行った段階で市委員二人が我が家を訪
      ねてきましたが、回答らしき物は何も持参せず、事実関係も全く違った主張をして帰っていきました。さらにM
      府会議員は大学時代からの友達で、実は職場も一緒だった時期があります。この議員が、「私文書」を一回
      くれましたが、その書き出しは「忙しいから回答する気はなかったが、回答してやる」というものでした。中味は
      私の意見書に答えたものではなく、自分がいかに忙しいかを切々と語っていました。「貴方が考えているより
      私は多忙です」と全く人を見下した文書でした。

  これら一連の経過を通して、私は共産党が国民政党としての必要要件を具備していないことに築き、共産党に最低限、「国民からの意見には応えるそのような当たり前の常識を身に付けさせる」戦いを挑み始めています。(私の家に来た市委員は開口一番「市委員会には意見書類が30数件来ている。そのどれとも対応していないのに貴方の家にだけ訪問することはおかしいという内部の意見もあったが参上した。」と言いました。特別に来てやったと恩着せがましく言いました。(国民と向き合うことが当たり前なのに、そのことを理解せず、「来てやった、感謝しろ」みたいな言い分にあきれ返りました。)

  この事態を経験し、共産党が選挙毎に衰退する原因が私には掴めたような気がしました。「この体質を変えてやる。」これが私の戦いです。(映画:「ぼくたちと駐在さんの700日戦争」をもじり、「私と共産党の3650日戦争」(生きていると思える期間)を勃発させたのです。私は共産党から「各級機関は国民から意見があった場合必ず応えるように」という指令が出るまで戦います。その際、私に侘びを入れることが条件です。・・・私なりにこの戦いを楽しんでいるのです。)

 丸さんから丁寧なお言葉を頂きながら、それに対して十分対応した議論ではなく、私の思いを書き綴った文書です。まずその点の非礼をお詫びします。是非一度読んでいただけないでしょうか?

ここからが本題です。  

  前回の私の投稿で「共産党の前衛性を求めている」と主張しました。共産党は痩せても枯れても大衆の後ろからついて行くべきではないといいました。(これは私の共産党という政党に対する憧れみたいなものです。そうあってほしい、あるいはそうあらなければならないと思っています。)

  共産党は第22回大会(2000年11月24日)に規約改正を行っています。その最大の変更は党の性格規定だと思われます。旧規約は第7回大会(1958年)で定められたものであり、日本共産党は「前衛政党」と位置付けされていましたが、この改訂では「前衛政党」を削除し、「日本共産党は、日本の労働者階級の政党であると同時に、日本国民の党である」と規定しています。

  共産党のこの規約改正は大衆運動とのかかわり等を清算する上で必要であったと思われますが、実際の運動では、今回の3.11の震災に伴う共産党の対応を見ている限りでは、いまだに清算できていないと見ています。

<共産党の規約改正と大衆運動とのかかわりについて>

  この規約改定案を第7回中央委員会総会(2000年9月19日〜20日)に報告した不破氏の説明によると、「これまで「前衛政党」、「前衛党」という言葉をつかってきたのは、我が党が労働者階級、あるいは日本の国民に号令を出したり、その考え方や方針をわれわれが「前衛」だからといって国民に押し付けたりするという趣旨ではありません。どんな方針も、国民の共感、信頼、そして自発的な支持を得てこそ実現されるものであります。」「私たちが「前衛という言葉で表現してきたのは、実践的には不屈性、理論的には先見性、ここに集中的にあらわされると思います」と報告しています。

  この不破氏の報告は字面だけ見れば正しいように見えますが、共産党と大衆運動の関係でそうした基準が果たして守られてきたでしょうか、規約改正前も規約改正後も、共産党による「大衆運動の引き回し」は引き続き改善されていないのが現状であり、共産党が国民政党へと脱皮するにはどうしても超えなければならないハードルだと思っています。(なお、恥ずかしながら、私はこの規約変更を最近知ったばかりです。・・・私には30年間の空白があります。)

<党は大衆運動の方針より党の決定を上に置き、そのことを党員に義務付けていた>

 これは私が体験した実例ですが、労働組合の中で民主的に決定された方針に対して、党は、党の方針と違うから「その決定に従うな」と、当時の市委員長であった府会議員を初め、市委員から圧力をかけてきました。(注2)私は「労働組合の中で正式に決まった方針に反する行為を行うことはその後の組合活動を困難にし、組合員からも見放される」と強く主張したが聞き入れられず、結局党の決定に従いました。(しかし、その後の組合活動は極めて窮屈なものとなり、私の行動は支持されなくなりました。)

注2:共産党地区委員会は日常的な組合活動に対しては全く指導的力量を有せず、全て労働組合内の共産党の
     働きに任せているが、このようなときだけ上級機関風を吹かし、妥協無く攻めてきます。

<第22大会以降共産党の姿勢は変ったのか>

 私は、今回の3.11震災における原発の崩壊という事態の中で、共産党は原発政策が確立し得ず迷走し、「さよなら原発6万人集会」の赤旗報道などを見る限りでは、またまた党の決定を大衆に押し付け、原発反対の大衆の運動に水を注していると見ています。

以下具体的に述べます。

<さよなら原発6万人集会の赤旗の報道姿勢について>

  作家の大江健三郎さんら著名な9人が呼びかけた「さよなら原発6万人集会」が東京・新宿の明治公園で開催されました(9月19日)。会場では主催者側がそれぞれ意見表明を行ったがインターネットでは4名の発言が紹介されています。(一般紙はほとんど発言内容を報道していないし、赤旗は自分達に都合の悪い意見は省略しています。)

  インターネットでは、それぞれの発言を要約すて報道しているが、私がさらに圧縮して報告します。(インターネットが一番当日の内容を正確に報道している)

◆まず鎌田慧さん(ルポライター)の発言は

原発の安全と信頼性はすでに破綻しています。それでも原発を再開することは国民に敵対する行為です。国民の8割が原発のない社会で生きたいと言っています。この声を無視して政治をできるわけがありません。(中略)この原発への「さよなら」はまたあいましょうなど再開を期することを含んだものではありません。もう絶対に会いたくないという意味での「さよなら」が、原発に対する私たちのメッセージです。

◆大江健三郎さん(作家)の発言は

原発の電気エネルギーなしでは偉大な事業は成し遂げられないと申す人々もあります。これはウソであります。原子力によるエネルギーは必ず荒廃と犠牲を伴います。

(中略)私たちはそれに抵抗するという意志を持っているということを想像力を持たない政党の幹部とか経団連の実力者たちに思い知らせる必要があります。そのために私たちに何ができるのか、原発を推進する勢力に対抗するには集会やデモしかありません。

 

◆内橋克人さん(経済評論家)の発言は

注意しなければならないことがあります。それは「新しい原発安全神話」、「原発安全神話の改定版」、「新版」、これが台頭しつつあるということです。つまり、「技術が発展すれば安全な原発は可能である」とする安全神話の改訂版が新たな装いを凝らして台頭しつつある点に注意しなければなりません。(中略)原発を持ち続けたいという意図の裏には何があるのでしょうか?それは、私たちの国が「核武装」、「核兵器で武装」することが可能となる潜在力を持ち続けたいとする政治的意図だと思います。

 

◆落合恵子さん(作家)の発言

  放射能廃棄物の処理能力も持たない人間が原発を持つことの罪深さを私たちは叫んでいきましょう。それは、命への、それぞれの自分自身を生きていこうという人への国家の犯罪です。容易に核兵器に変るものを持つことを、恒久平和を約束した憲法を持つ国に生きる私たちは決して許容してはならないはずです。

この主催者側の4名の発言は、いずれも共産党の原発政策(安全優先の原子力政策)を乗り越えています。とりわけて、内橋さんの批判している「あたらしい原発の安全神話」という批判は、正に共産党の政策そのものです。(注3)

  一方「正義の味方真実の友」であるべき我が赤旗はこの集会をいかに報道したか、これを見れば赤旗が「正義の味方でも真実の友」でもないことが分かります。

 

★さよなら原発6万人集会の赤旗記事(これは前後の省略はしているが発言の要約は省略していない。)

この日の集会は、新規原発計画の中止、既存原発の計画的廃止などを求めるもので、全労連、全労協、連合系、中立系の労働組合、民医連などの民主・市民団体や多数の個人が全国から参加しました。午後1時半の開会より1時間以上も早くから、最寄りのJR千駄ケ谷駅から会場に向かう長い列ができました。「原発いらない」のゼッケンを身につけた子ども連れの母親など、女性の姿が目立ちました。

 呼びかけ人の鎌田慧(ルポライター)、大江健三郎(作家)、落合恵子(作家)、内橋克人(経済評論家)、澤地久枝(作家)5氏らがステージに立って発言しました。

◆鎌田氏は、野田首相が原発を再開していく姿勢を見せていることにふれ、「原発の安全性と信頼性はすでに破綻しています。再開するのは住民への敵対です」と話しました。

◆大江氏は、原発を推進する勢力に対抗するには集会やデモしかない、とのべ、「しっかりやっていきましょう」と呼びかけました。

◆落合氏は、「子どもが夜中に起きて、『放射能こないで』と泣き叫ぶような社会を続けさせてはならない」と訴え、

◆内橋氏は、「さようなら原発、こんにちは命輝く国。その第一歩をみなさんとともに歩み続けたい」とのべました。(中略)

志位委員長・市田書記局長ら参加

 「さようなら原発集会」には、日本共産党の志位和夫委員長、市田忠義書記局長、笠井亮衆院議員(党原発・エネルギー問題対策委員会責任者)らも参加し、市民と交流しました。

 志位氏は主催者側の人らに「盛況ですね」「まずは原発の再稼働を止めたいですね」と声をかけるとともに、本部スタッフと握手。舞台の付近で一参加者として呼びかけ人らの発言に拍手を送りました。

スマートフォンで志位氏らを撮影したり、握手を求める人も。志位氏は、離れたところから手を振ってくる参加者たちにも笑顔で手を振り返して応えました。(後略)

 この赤旗記事とインターネットで報告されている内容の違いこそ、今日の共産党の誤った姿をさらけ出しています。赤旗は各発言者の最も重要なポイントをはずして報告しています。

 これは、すでに大衆運動が共産党を乗り越え新たな地平を築こうとしていることを共産党は歓迎していないことのあらわれです。

  赤旗の捻じ曲げは、まず、この集会に参加したのは、無党派の多くの市民です。共産党の影響力のある団体が主要に参加したものではありません。(むしろ裏方を支えたのは原水禁側です)あたかも共産党系の団体が主流のように描いていますが市民が多数決起したところにこの集会の値打ちがあるのです。

  つぎに、共産党は「核の平和利用」があきらめきれず(注3)、主催者側の挨拶を共産党の政策(核の平和利用)に反対する主張を、全く切り捨てて報道しています。

<以下共産党がはずしたそれぞれの発言のポイント>

 ◆鎌田さんは、このさよならは、「もう絶対に会いたくないという意味での「さよなら」が、原発に対する私たちのメッセージです。」と主張しています。

 ◆大江さんは、原子力によるエネルギーは必ず荒廃と犠牲を伴います。と主張しています。

 ◆内橋さんは、「技術が発展すれば安全な原発は可能である」とする安全神話の改訂版が新たな装いを凝らして台頭しつつある点に注意しなければなりません。原発を持ち続けたいという意図の裏には何があるのでしょうか?それは、私たちの国が「核武装」、「核兵器で武装」することが可能となる潜在力を持ち続けたいとする政治的意図だと思います。

◆落合さんは、容易に核兵器に変るものを持つことを、恒久平和を約束した憲法を持つ国に生きる私たちは決して許容してはならないはずです。

この「さよなら原発6万人集会」の赤旗の報道は、主催者側の挨拶を共産党の方針の枠の中に押さえ込み報道するという極めて不誠実な、権威主義的(「前衛」であるという。)報道といえます。こんな報道をして市民に真実を語らない新聞が果たして一紙で間に合う新聞といえるのでしょうか疑問におもいます。(注4)

注3:毎日新聞2011.08.25 東京朝刊 11頁

ザ・特集:共産・志位委員長と社民・福島党首、反核の「老舗」対談という記事がある。この対談は共産党の原発政策を知る上で重要な記事である。

福島― しかし、共産党は核の平和利用について認めてきたんですよね。社民党は、核と人類は共存できない、いかなる国の、いかなる核にも反対、です。核の平和利用はありえない、と訴え、行動してきました。

 志位― 私たちは核エネルギーの平和利用の将来にわたる可能性、その基礎研究までは否定しない。将来、2、3世紀後、新しい知見が出るかもしれない。その可能性までふさいでしまうのはいかがかとの考えなんです。

 福島― 共産党は極めて安全な原発なら推進してもいいんですか?

 志位― そうじゃない。現在の科学と技術の発展段階では、「安全な原発などありえない」と言っています。いま問われているのは、原発ゼロの日本にしようということでしょ。

 福島― 安全な原発はないし、核の平和利用と言って原発を肯定するのはおかしいです。

 志位― そこでは意見が違っても原発ゼロでの協力は可能だと考えています。

 ※ 志位委員長は、共産党は核の平和利用についてはあきらめていないと明言しています。(2、3世紀後の可能性を、なぜ今発言する必要があるのか共産党のセンスを疑います。・・・運動が全く判っていない学者の論議です。)

注4:赤旗は主催者側の基調報告を正しく伝えないだけでなくまたもや提灯記事を載せています。「スマートホンで志位氏らを撮影したり、握手を求める人も。志位氏は、離れたところから手を振ってくる参加者たちにも笑顔で手を振り応えていました。」という記事を載せています。これは、志位氏を褒め上げて書いたつもりが、この歴史的に重要な集会(偉大な国民の戦いの場)で、志位氏が「スマートホンで撮影されていた」というような馬鹿げた役割しか果たせなかったことを自ら白状しています。(追い返されなかっただけましとしますか・・「正義の味方 真実の友」が泣いています。) 規約改正にあたって不破氏が説明した内容(注5)が全く実践されていません。

注5:これはすでに上記に記したが再確認のため改めて書きます。

   「これまで「前衛政党」、「前衛党」という言葉をつかってきたのは、我が党が労働者階級、あるいは日本の国民に号令を出したり、その考え方や方針をわれわれが「前衛」だからといって国民に押し付けたりするという趣旨ではありません。どんな方針も、国民の共感、信頼、そして自発的な支持を得てこそ実現されるものであります。」「私たちが「前衛という言葉で表現してきたのは、実践的には不屈性、理論的には先見性、ここに集中的にあらわされると思います」と報告しています。

  私が求めている共産党の前衛性は、さよなら原発の赤旗報道に見られるような、共産党の一人よがりの前衛性ではありません。不破報告の後半の部分「実践的には不屈正、理論的には先見性、ここで集中的にあらわされる。」という部分です。しかし現実の党は、理論戦線で「前衛性」を失い、規約改正後も過去の負の歴史(大衆運動の引きまわし等)のみが残っています。

  これを克服するためには、再度規約改正で、「大衆運動の中で活動する党員は、大衆団体で民主的に決定された方針に対して誠実に実行し、党の決定を上においてはならない。」という趣旨の規則をいれることが重要であると思っています。(私の場合は党の決定が誤っていると100%思っていましたが、党の決定に従えという圧力に反対することはその時点では決断できませんでした。)

   以上から、共産党の前衛論は不破報告の線で整理するべきであり、同時に規約でそのことを明確にすることが必要ではないかと思っています。(大衆団体の決定の上に党の決定を置かない、大衆団体の方針を誠実に実行することが党員の責務である)さざ波通信でも「日本共産党の大衆運動・組織への介入・弾圧について(広田法真)」というレポートを報告している人がいます。これら上級機関からの介入を防ぐためにも、規約で党と大衆運動の関係を定式化することが求められています。

話は全く変わりますが

<橋下徹は稀代のペテン師であるとともに稀代の政治家です>

  次に丸さん私はあなたの主張の多くの点で一致します。その知識の豊かさから来る論旨、非常に勉強になります。しかし前回も言いましたが、何か違う感じがします。それは私が貴方のように思慮深くなく、どちらかと言えば喧嘩早い性格から来ているのかもしれません。実は私は橋下・「維新の会」を批判していますが、橋下氏が好きです。橋下氏は「稀代のペテン師であると同時に稀代の政治家」だと思っています。政治とはこのような世界だと私たちに教えてくれたと思っています。政治には躍動感みたいなものが必要だと思っています。政治には「平時と戦時」があります。丸さんの主張は「平時」の議論であり、橋下氏の主張は「戦時」の主張です。(この戦時の戦いが政治には必要だと思っています。)

  昔中国のケ小平が「黒い猫でも、白い猫でも鼠をとる猫は良い猫だ」といったことがありますが、政治家もいくら清潔であっても政治家としての資質に欠けていては全く問題外です。私はこのケ小平の言葉が好きです。(現状の中国は、この言葉を拡大解釈してとんでもないことになっていますが)

  たとえば、日本共産党が「お金と政治」に力を入れ、小沢氏を悪党のようにキャンペーンを張っていますが、これが本当に正しいのか疑問をもっています。(注6)このキャンペーンから生まれるのは、政治家が普通の人になってしまうのでは危惧しています。本当に政治家は清潔であることが第一の必要要件でしょうか。職業としての政治家に求められるのは清潔より国家百年の計(注7)を見通せる眼力や国民大衆の幸せを実現する行動力及び誠実さが大切だと思っています。共産党は清潔ですが、その他の要素、取り分け誠実さには疑問符がつきます。(例えば、共産党の原発政策は一貫しています。・・・実際は迷走しているではありませんか)

注6:小沢問題は検察の暴走という視点からも捉える必要があります。あるいはこちらからの視点の方が重要です。(私は最近eo光に加入し、FOXテレビのドラマ見える環境になり、LAW&ORDERという番組を良く見ていますが、アメリカでは検察側の証拠捏造が分かった段階で裁判は終了です。)

  さらに、お金と政治の問題では、前原氏の外国人市民からの5万円の献金問題を捉えて「議員辞職に値する」という共産党の見解も極めてナンセンスです。共産党は地方議会における外国人の選挙権を認める立場に立っています。政治献金を行う行為自体も外国人の政治参加の一形態です。これを認めない現行法の問題点を指摘するのではなく、善意から行われた献金を、法令違反だから議員辞職に値するという主張は誤っています。

注7:共産党は尖閣列島問題の見解を発表し、日本固有の領土だと明確に主張しました。また、この見解が自民党等からも誉められていると喜んでいますがこれが共産党の取るべき立場でしょうか。さざ波通信でもこれをめぐって議論があったように記憶していますが、今重要なことは、ことさらにナショナルイズムを煽ることではなく、共産党が「中国が社会主義国で、中国共産党と友党関係にある」というのであれば、社会主義的道義に基づき解決を主導する野党外交こそ大切なのではありませんか。ここで優位に立たない限り、日本の固有の領土だということを共産党がいくら証明しても、何の成果も上がりません。(むしろ右翼の援護射撃になっています。)

  私は現在の共産党はすでに政治的に武装解除されたような状況であると思っています。(守るべき価値観は何であるかが狂っています)今回のいっせい地方選挙で震災復興を最大の課題に掲げ、原発は安全点検、大阪ダブル選では「安全、安心、やさしい大阪」で戦いました。私は、4月の市会議員選挙に際して、本市のすべての候補者のポスターを見ましたが、震災に対するお悔やみの言葉はあっても、復興支援を最大に掲げた党派や個人は共産党以外にはありませんでした。(注8)共産党は政治的な感性・資質が全くありません。まさに「鼠を捕らない猫です」。それに比べれば、橋下氏は「鼠をとる猫です」。

注8:丸さんは震災復興が最大の課題で戦っていた実感が無かったと言われましたが、実は、私も高槻のポスターの異常さに驚き、神戸、京都、茨木市などのポスターを見に行きました。確かに他府県のポスターはそのことがメインにはなっていませんでした。例えば京都では普通のポスターを作りそこに8センチ四方ぐらいのワッペンみたいな印刷で「震災復興」を入れていました。(各県委員会での判断が違っていたと思います。・・・しかし共産党の方針は震災復興でした。)

  この違い(共産党と橋下氏の)がどこから来るのかの分析が必要だと思います。丸さんの言われる筋道すべてそのとおりだと思います。しかしそこに躍動感が無いのです。橋下氏は「選挙はイクサ」だといいます。彼は陣地戦と理解していると思います。いかに戦えば自らの陣地を増やすことができるか考えて発言しています。かれは日本社会の閉塞感がどこから来ているのか分析し、公務員攻撃、教育条例案、大阪都構想(大風呂敷)しかり、その他原発に反対して太陽光発電をソフトバンクの孫氏と連携して開発するなどと発表し、大衆が今何を望んでいるかを的確に判断して政策を発表しています。これが政治ではないでしょうか。

<現在の共産党は何を機軸にすえているか>

  これに対して、我が日本共産党は、赤旗で国民の多数は原発反対の立場に立っているという状況認識を示しながら、いっせい地方選挙の後半戦では、大衆の意識が変わっているたとえば原発に対する意識の変化などといいながら、原発政策は、「安全神話を乗り越えて」と叫びながら、あいかわらず「安全優先の原子力政策」を述べる体たらくでした。

  この日本語から考えてもおかしい政策を共産党員の誰もが反対しない現状を見たとき果たして大衆は日本共産党を信用するでしょうか。(注9)

  つまり何が言いたいのか、丸さんはいかにして大衆を組織するか、その際の前衛党の役割は何かを順序を持って理論的に説明されています。それは全く正しいのだと私も思います。しかし、現在の共産党はすでに自らの立ち位置を見失い、共産党が大躍進した過去の栄光にしがみつき、民主連合政府の実現を夢見て、如何に政権与党に擦り寄って過去の社会党村山政権が一夜にして社会党の政策を放棄したことが、その後の社会党の崩壊につながった歴史に学び、今のうちから予め「連合政権に入る際の政策のすり合わせに支障の無いように自らの政党の衣替えを行っている」と私は見ています。

  今回共産党は「安全優先の原子力政策」を掲げて戦ったのは、この範囲なら財界の怒りを買わない政策だと判断したと思っています。「さよなら原発6万人集会」の赤旗報道も原発反対の国民の運動を励ます立場からの報道ではなく、まさに共産党の利益優先の報道であり、原発と核開発との関連の発言などをすべて闇に葬りさっています。これを報道すれば時の権力者の怒りを買うからです。

  丸さんの言われる、種をまいて収穫する話は、畑を耕し、品質の良い種をまき、大切に育てて始めて収穫できるものであり、それ以前の問題が共産党には発生しているのではというのが私の問題意識です。現在の共産党は誰に依拠すべきか、まず耕すべき耕作地の選択から誤っています。丸さんは耕すべき耕作地はどこかを正確に述べておられますが、私は思考が単純ですから、正しい耕作地はここだというより、「耕すところがまちがっている」という指摘をしないと気がすまないのです。

注9;共産党は「安全優先の原子力政策」の中味を選挙期間中に明らかにすることはできませんでした。私は、関西電力が700億円かけて安全点検を行うと発表した内容とどこが違うのか、共産党に何度も聞きましたが、回答はいただけませんでした。

<選挙を通じて国家権力を掌握することが可能>

  私は、橋下氏の登場で、政治に対する見方が大きくかわりました。共産党の議会で多数を得て国のあり方を変えるという方針対して、この間の選挙の度の後退をみて、そんなことは不可能という思いをもっていました。しかし橋下氏はこの大阪においていとも簡単に多数を握ったのです。国民大衆に支持される政策さえだせば、国民の過半数を取ることはできるということを彼は見せてくれたのです。私はそれ以前の二代政党性を作るという小選挙区制にも懐疑的でしたが、民主党が政権をとった時にも感動しました。(その後の民主党はダメですが)

橋下徹氏の選挙戦における様々な言動は、国民の要望に正しく応えるなら、政権を担えることを、我々に見せてくれたのです。(橋下徹氏にはペテン師的要素があるが)

  橋下氏はこれを一人でやってのけたのです。政治の中でリーダの役割(党首の役割)が如何に重要かを彼は見せてくれました。カリスマ性を持った偉大な政治家が現れたら政治は変わることを実感させてくれました。マックスウェバーは「職業としての政治家」の中で「政治の本質は「党派性」と「闘争」である」と指摘しています。

  現在のような閉塞感のある社会では、強力な指導力のある政治家が現れたら、その政党が主導権を握れることを彼は我われに見せてくれたのです。このことは恐ろしいこと(ヒットラーの例等)でもありますが、すごいことだと思っています。

  例えば、ドイツでは日本の震災を見て、原発反対を掲げた緑の党が大躍進を遂げました。これが政治です。(注10)政治にはダイナミズムな躍動感が必要だと思っています。つまり相手に付け込むチャンスみたいな政治状況をつかんだ者が勝つのです。赤旗を増やして思想教育を行い支持者を増やし、地方議員を増やし、さらに国会議員を増やして行く。このような順序立てが政治に必要なのでしょうか。そうではなく、情勢を切り開く力政治力こそがいるのです。

注10:この政治の躍動感は、橋下徹だけではなく、この間の選挙がそれをおしえています。消費税選挙の土井党首の「ダメなものはダメ」、小泉さんの「痛みを伴う改革」「郵政民営化」橋下氏の「既得権益の打破」「市役所をつぶす」など、「ワンフレーズ・ポリティクス」が政治を動かした事実から学ぶ必要があります。(そのときの情勢、大衆の気分・感情に合った言葉を発したものが勝つ)私はこの政治の特性を学ばず、順路立て路線では勝利は掴めないと思っています。

  とりわけて私は小泉首相が行った「痛みを伴う改革」という言葉が大衆に受け入れられたことに注目しています。今までどの政党も、大衆に対してバラ色の世界を語り、それで票を集める方法を取ってきました。共産党の基本政策もそうです「安全・安心・やさしさの大阪」も、ばら色の世界に導きますよという訴えです。(ポピュリズムです。共産党は「権力と戦った場合に勝つ」という基本を忘れています。)しかも世間全体が閉塞感に覆われているときに、ばら色の世界を語るより、「痛みを伴う改革」のほうが現実味を持っているように見えます。この辺に共産党の政策の遅れがあると見ています。府民は恐らく「そんなばら色の世界は無い、白々しい、我々を騙して引っ張ろうとしてもその手には乗らない」という拒否反応があったのだと思います。(見抜かれているのです。)

  私はどのフレーズが国民の気分感情にマッチするのか、その回答を出せない政党はやはり国民から遠い所にいるのではと思っています。共産党は、いつの間にか大衆から遠い位置に自らを置いてしまいました。私の出した15通の意見書に対して、確かに頂いたという回答をくれないかと何回もお願いしましたが、一切返答はありませんでした。この国民から遊離した共産党の姿が、すでに国民に見抜かれています。それが共産党の大阪ダブル選挙での最大の敗因だと思っています。

  丸さんの言われる「独裁NO!」がダメだったのかという批判は、選挙戦の総括として検討しなければならない重要な課題ではありますが、やはり基本は党の体質にあり、そこを押さえた上での議論ではないかと思っています。

  また平松陣営の政策が正しかったのかの検討も必要という指摘も重要であり、共産党は平松支持を打ち出す一週間ほど前の赤旗に、「橋下も平松も同じ」という大きな見出しを掲げていました。(平松支持にあたってこの問題の整理がなされていません。)平松氏の問題というより、長い間の大阪市役所の集票マシーンのような体質(当局と組合・解放同盟との癒着)が橋下氏に暴かれ、敗退したと見ています。(平松氏以前は全て助役が勝っていました。大阪市独特の「集票・利権システム」があったのでは(?)と思っています。・・具体的には書きにくいので)

  最後に私は共産党が結党90年を向かえ、政党支持率が数%しかないことの原因を共産党自身がしっかり見直すべきだと思っています。恐らく共産党は、それは反共攻撃があるからだ、そんなことも判らず批判していると居直ると思っています。しかし、自らの党の弱点に深くメスを入れることを抜きに、「反共攻撃」という言葉で全てを合理化する共産党の態度は思考停止だと思っています。

  これと似たような話が、田中康夫氏が長野県知事の際、解放同盟との交渉で、解放同盟が「差別はますます厳しくなっている」と主張した際、田中氏は「おかしなことを言いますね100年近く戦ってきて、差別がますます厳しくなっているのであれば、それはあなた方の運動が間違っているのでは」というような趣旨の発言をしたと聞いています。この田中康夫の言葉はそのまま共産党にも当てはまると思っています。結党90年の老舗の党が昨日今日できた橋下・「維新の会」に蹴散らされるようでは、やはり運動に間違いがあることを知るべきです。もし共産党が科学の党というなら、それぐらいの分析を行うべきです。日本の政党の中で最も非科学的な戦いを行っているような気がします。

 「赤旗拡大で世の中が変る。」これを信じて日夜奮闘し疲れ果てている現場の党員の姿が見えず、本当は赤旗が増えないと財政危機になり、自らの収入源が立たれると思って命令しているのであれば悲劇です。すでに共産党は行き詰っています。共産党は政党助成金を受け取り、お金の面での心配を減らし、本当に国民大衆のために今何が求められているのか、真剣に議論することが再生への道です。このほうが本当に国民のためになります。現状は「売れない商品を抱えセールスに走り疲れ果てている共産党員の姿が見えます。」(預言者風に言えば)、疲れ果て、国民の意見に耳を傾ける余裕も無いのが共産党の実態だと見ています。

 もうギブアップしませんか、一から建て直ししませんか、これが私が共産党に送る言葉です。