ゆれ続ける共産党の方針

              本日付け(31日)赤旗でまたも「横暴」が復活



  どうも共産党にとって「独裁」と「横暴」、「暴走」は同じ概念のようである。私はこのサイトの二つ上の文書で「政治用語は正確に」を書き、「独裁」と「暴走」や「横暴」は全く違った概念であると書いたが、共産党には判っていないみたいだ。
 しかし、橋下・「維新の会」を「独裁」と認定するか、「暴走」あるいは「横暴」と認識するかでおのずから戦いの方針は変ってくる。

  「暴走」は「乱暴に走る」ことを意味し、例えば野田総理のTPPへの取り組みを赤旗は「暴走」と書いていた。「横暴」は辞書によると「権力腕力にまかせて無法・乱暴な行いをすること」イメージで言うと田中真紀子氏の振る舞いなどがこれに当たる。

  それに対して「独裁」は「一個人、少数者または一党派が絶対的な政治権力を独占して握る政治体制を指す」イメージで言えばヒットラーであることは子どもでも知っている。

  つまり、「暴走」や「横暴」は、その局面の状態を表す言葉でしかないが、「独裁」は全ての国民の運命を決定する極めて危険な政治行動である。
卑近な例で恐縮だが、田中真紀子が外務大臣の際指輪がなくなったから、買って来いと官僚に命令した話など「横暴」ではあるが、我々国民には何の影響もない。面白いエピソードとして聞ける。

  橋下氏の狙いはそんな単純なものでなく、自分の思いで日本の政治を全て変える、日本人全体の命を彼に託すことになる。これが彼の野望であり、この芽を早く刈り取っておくことが、日本の民主主義にとって重要なのである。

 共産党は「声明」を出しながらなぜ未だに迷走するのか?

  私の共産党のイメージは一枚岩であり、方針が出ればすぐに全党に伝わり、全ての党員がその方針で戦うと認識してきた。しかし、原発に対する方針のときも、党中央はメーデー会場で志位委員長が「原発ゼロ」宣言を行い方針転換を行ったが、地方ではその後も「原子力の安全点検」という言葉を使っていた。共産党の政治的退廃は想像以上のものがある。(意見書12参照)

  今回も「声明」発表後も、相変わらず「独裁」という言葉が全く入っていないビラや府会報告、地域ビラが配布されている。(11月1日共産党は駅頭で宣伝活動を行っていた。私なら10月29日付けの声明を市民に配布するが、配られていたビラは「安全・安心・やさしさの大阪」というビラだった。)
  共産党にとっては、「独裁」も「暴走」も「横暴」も同じ概念らしい。なんとも悲しくなる。